D旗たなびく

忘却甚だしく、メモ代わりにちょっと書くだけ。 コメントは受け付けていません。

昨年から持ち越しになっているフネのオイル交換に行く。
冬場はあまり乗らないから緊急を要する作業ではない。学生時代から冬はメンテナンスと相場が決まっているな。
狭いエンジンルームでの作業なのでオイルまみれになることは必定。で、この日だけはリルを連れて行かない。家にいる家内たちと散歩してる方がリルにとってはいい。
午前中、海王さんの開店時刻に合わせて電話。オイルチェンジャーをいつも借りているからで、海王さんが使っていたらオイル交換はできない。これをクリアしてから出かける。
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 解体が終わったアウトレット。

何度もやってるオイル交換だけに、もう手慣れたものだ。
まずは20分ほどエンジンを回し中のオイルを熱で柔らかくする。エンジンを止め、そのあと15分ほどしてから機関内を回り切ったオイルが下に落ちて溜まるのを待つ。オイルゲージでちょこちょこと確認。オイルの上抜き作業はそれからだ。
一応、ゴム手袋は持っていくが作業自体はそれなしでもできる。問題はオイルエレメントを引き抜く時で、構造上どうやってもオイルがどっと垂れてくる。それから、作業が終わって片付ける際、オイルチューブをしまう時も数滴垂れる。それに、オイル缶から滴ったりするので、ウェスだけでは油まみれになる。
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 オイルチェンジャー

今日は新オーナー谷公も自船の舫ロープを買うからマリーナに行くと言っていた。
現れたのは昼頃で、ちょうどオイルエレメントの取りはずしにかかっていた時だった。
「今、手が離せん」
と目を離した瞬間、ゴボゴボと垂れた。
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 オイル注入。

一通り作業を終えて谷公のフネに行く。
新品の俵型フェンダーがポンツーンに付いていたが、どうも位置がおかしい。
ボート購入したものの、よくよく見てみるといろんなことに気が付き始めるらしく、冷却水が出てないとか古い魚探が2台も出てきたとか、ヤレヤレという感じ。
寸法問題のアンカーローラーステップは結局メカニックスタッフに依頼して、来週上架するらしい。
取り付けや処分費を含めて5万円くらいかかると嘆いていた。
持てば持ったで、何かと頭が痛いのは皆同じだ。初期投資は致し方ない。
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 これが邪魔なんだな。

舫の張り方やフェンダーの位置を見てアドバイスし、それらを買いにマリンショップへ行く途中、唯一やってるレストラン「Pier1」で食事。
紹介も兼ねてレストラン2階のオーナーズサロンで食べる。ここはオーナー専用で一般客は入れない。
「まあ、オーナー特権だな」
というと嬉しそうに笑う谷公だった。
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 真新しいオーナーカードをぶら下げてる。

マリンショップでロープを買った谷公だが、アイ・スプライスは自分でできないから特注となる。
もったいないなあ。でも、ロープの数が多いから仕方ないかな。できなければ最初は舫結びで輪っかを作ればよかったのに。おまけにロープカバーまで買っていた。
私なんぞ、ボートフェアのワゴンセールで14㎜の八打ちロープ10メートルを千円で買ったからついついそう思ってしまう。貧乏船主はなんでもこなす。

フネに戻る途中、船名を船首に付けたいがどこに頼めばいいか分からないというので、海王さんを紹介。ボートは取り扱ってないけれど船名ステッカーなら大丈夫。
船名が入るといかにも自分がオーナーになったっていう気持ちになるからなあ。あれは嬉しいよね。
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ただ、そう簡単じゃない。
字体、カラー、縦横の長さ、貼り付けの位置や傾き具合など、こんなもの一つでも結構考えたりする。
「で、船名は何だ?」
「エルザ5世」
たいそうな名前を付けてくれるじゃないの。
亡くなった親父さんが、ボートに毛が生えたような小艇に最初の名前を付けたのが「エルザ」それから2世、3世とボートも大きくなっていったのだという。
その敬愛してやまない父の遺志をついだわけだ。

フネに戻って俵型フェンダーの張り直しと、水冷エンジンの出具合をチェックする。
確かに排水が少量で、おそらく冷却水水路のどこかで塩か稚貝が固着してるようだ。船外機だからそれほど面倒な作業ではない。学生時代にポンコツの船外機に手を焼いた私にはどうすればいいかは分かる。
でも、エンジンだけはこれから何が起こるか分からないから、自分でメンテナンスした方がいい。マリーナ近くまで帆走してこられるヨットとは違う。ボートはエンジンが命。
海の上では誰も頼れない。車と違って路上に止めることさえできない。何が起こっても自分で対処することが求められる。そのためには自分のエンジンを熟知しておく必要がある。
あとは自分でやってくれ。手伝いが必要ならまた連絡しろと言っておいた。
丁度その時海王さんが通りかかったので、船名シールの件を相談させる。
来週の上架時には間に合いそうだ。
「こりゃ、週に三日ぐらい働かないと維持管理できないなあ」と思い知った様子。船出は遠いなあ。
午後3時過ぎには解散。

家に帰ったらリルが抗議のボディアタック。
しょうがないから日没の寒い中を散歩。完全に冷えた。
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 オイル交換してたんだよぉ。




なんだか動きが早くて、ついていけてないこの頃だ。
年明け早々訃報が入る。父の最後の兄弟姉妹で、父の97歳の姉が亡くなった。
日ごろ親戚づきあいなどしたことのない従兄たちは、こんな時に限って私に連絡してくる。
父の家の電話番号やら他の従姉妹たちの連絡先を訊いてくるわけだ。私も弟や親せきにその訃報を伝えていくから、伝えた本人がいかないという選択肢はなくなる。必然的に私がお通夜や告別式に出席せざるを得なくなる。訃報はいいにしても、いっそのこと葬儀は家族で行いますと一言添えてくれた方が気が楽なんだが。
私が行くとなると、一番血が濃い父も行かざるを得なくなる。こんな寒い日に黒服着て出かけること自体、死を招きそうだから、香典だけ預かることになるだろう。まあ、なんにしても私が代参で行かなきゃいけないわけだ。
亡くなった伯母は、それこそ小学生の時に2,3度父に連れられて港北区の団地に遊びに行った程度で、そこを引っ越して以来親戚の葬儀以外は会ったことがない。それでも私は毎年年賀状を出していた。
父も一番縁が薄い姉だとよく言っていたが、伯母の長男の仲人を引き受けた。その長男は何年かして離婚し、以来一切連絡がない。私もどこでどうしてるかしらない。
連絡を寄こしたのは末の弟で、一応大学の先輩にあたる。いかにも面倒そうな声で、なんで俺が?というイヤイヤ感がぬぐえない。
父は亡くなった伯母を偲ぶというより、甥や姪の今までの不義理に文句を言っている。そういう愚痴を聞くのも私の役目だ。
まあ、昔と違って親戚はむしろ厄介な存在になりつつあるな。
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 横浜大鷲神社の金毘羅さん。

その父のために、なんとか思い出の”黄色いカレー”を食べさせようとしている私だが、未だにOKが出ないでいる。時々、町の洋食屋に入って食べてみるが、同じものを作れるかというとこれが案外難しい。
また同じようにできても、そもそもその洋食屋のカレーと父の記憶とではまったく異なっていたりするから、いつも振りだしに戻る。
私の祖母が作ったという幻のカレー。
家庭で作ったのだから、今時のゴチャゴチャ香辛料が入った物じゃない。
昭和初期のカレーを再現しても、それは”祖母”の味ではない。
味の記憶というものは、その個人の舌でしかわからない。なので、何度も何度も挑戦するしかない。
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 昨日の試作品。全然ダメ。

カレーが画期的に変わったのは『バーモントカレー』かな?
いわゆる固形ルーの誕生が、それまでの家庭のカレーを一変させた。最近ではカレーは黄色でなく、茶色い。
私が小さい頃のカレーはS&Bの缶入り”カレー粉”で、それを油を浸み込ませた小麦粉で練り合わせたお手製のルーだった。多分給食でも、街の食堂でも使われていた思う。
戦前戦中戦後の空白期を除けば、昭和初期に家庭で作れたカレーは昭和30年代のものと変わらないという私の発想なんだが…
当時の洋食屋の味を思い出しながら、ああでもないこうでもないと研究を続けている。
あの当時、ニンジン、ジャガイモ、玉ねぎの定番三種の野菜は入っていなかったように記憶してる。
玉ねぎは必須だった。肉もあるか無いかの豚肉もしくは鶏肉で、自由化前の牛肉はなかなか一般家庭でも洋食屋でもお目にかかれなかった。ステーキやシチューはメニューにあってもそれは破格で子供の私にはとても食べられるような代物ではなかった。
多少とろみついたカレーをこねくり回していると、たまに指の先くらいのジャガイモを掘りあてて得した感じになったものだ。豚肉も二切れ入っていると”当たり”だった。
それでも、ラーメンが70円の時にカレーは90円だった。
全体は鮮やかな黄色で、さして辛くはなく、玉ねぎ以外の存在は希少だった。そこに赤いニンジンが入っていた記憶はない。ニンジンは学校給食だ。
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 なんでも食べるよ。

今回はカレー粉ではなく、ウコンとショウガをベースにしてみた。辛味には鷹の爪と白コショウを使う。クリームとハチミツも少々。具は牛肉のバラと玉ねぎのみ。
出来上がったものを味見してみたが、後味に苦みが残る。秋ウコンのせいだ。
こんなんじゃないよなあ。
まあ、ダメ元で、それを息子に持って行かせ、何がどう違うのかを御用聞きさせた。
「具が多すぎる。もう少し辛い。色ももっと黄色い」
「苦いって言ってなかったか?」
「それは言ってない。味は前より近いって」

カレーの黄色はターメリックだが、日本ではウコンとして知られている。
当時、輸入物のターメリックなど売ってもなかったはずで、せいぜいカレー粉に混ざっていただけ。
ただ、少なくとも今のカレー粉にはその他の香辛料も入っているから、まっ黄色にはならない。
むー、試験管がほしくなってきた。
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昨日の続き。御用のある方はパスして時間を有効に使っていただきたい。
こうやってメモ書きしてても、あいつののっぺりとした雰囲気は伝わらないだろうけど、それは私がわかっているだけで十分だ。
南ア遠望
 八ヶ岳の風景。


そんな話をしてたらすでに8時。外では冷たい風がゴーゴーと鳴っている。さすがにターホーが質屋で買ってきた電気ストーブだけでは寒い。強い風に吹かれた氷柱が時々ぽきっと折れる音がする。
「むー、なんか遠大な計画のディテイルが見えてきた。よし、俺は今から行くぞ!」
「ええっ、ほんとかよ。吹雪いてるぞ。今から行ったって遭難者かなんかと間違われるだけだぞ」
「そこが狙いだ」
同情を寄せてもらえるとか、印象深く残るとか手前味噌な理由を話していた。
行くといったところで、もうバスもない。あいつのカブでは本当に遭難しかねない。
なんだ、かんだと適当にしゃべっていたけれど、むしろ火に油を注ぐ格好になった。
ここは責任をとって、私の車で出かける。かくなる上は一心同体。

吹雪いてワイパーさえ利かない林道を走りながらも、ターホーは未来に拓けた人生の岐路に終始笑顔で、私のアドバイスは大変良かったなどと持ちあげていたが、私はこの愚かな計画に足を踏み入れてしまった自分をつくづくアホだと感じていた。
9時近くに雪原に埋まるペンション近くで彼をおろした。
携帯電話なんてあるときの話じゃない、一旦別れたら翌日まで安否不明だ。
「おい、道に迷ったやつがこんなところをウロウロするかよ?だいたい、この冬の期間だ。万が一休業してたらどうする?」
「うへ、それは頭になかった」
「じゃあ、向こうから見えないようにライトを消してここで30分待っててやる。誰もいないようだったら30分以内に戻れ」 そう言い渡して吹雪の中を行かせた。吹雪いているので10mくらいで彼の姿が見えなくなると、なんでこんな日にこんなところにいるのかと自問した。で、腹も減った。
「あいつ、チョコバー全部食いやがったし」

30分経っても彼は戻ってこなかった。とりあえず中に入れたらしい。
私は同僚と住むあばら家に戻り、遅番の仕事を終えた同期にせがんで即席ラーメンを分けてもらいながら事の顛末を話した。
「お前ら、バカか!」

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 私たちのあばら家があったところ。

翌日、彼は遅番で昼からの出勤だった。
当時、私はフロント業務をしており、レストランは二階にあった。翌日の稼働数と食事予約を伝えるために午後様子を見に行くと、当のターホーはすこぶる元気がなく、私の顔を見て首を横に振った。
まあ、当然の帰結だろう。
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 当時のターホーと私。

その夜、また彼の下宿に行く。
「一夜にして遠大な計画が崩れた」
「やっぱり不審者扱いされたか?」
「まあ、あんな吹雪いた夜に突然いったからびっくりはしていたけど、とても親切にしてくれた。毛布掛けたり、コーヒーも熱かった」
「人命救助かよ。じゃあ、娘がいなかったか?」
「ちらっと見た」
「だいたい動機が邪まな計画だけに気がとがめたか?」
「いいや。ちゃんと部屋に通されて、しまってあった布団を出してくれて、ストーブを焚いてくれた」
「そうか、上出来じゃないの。じゃあ初めの一歩だな」
「それがさ、部屋に通してくれて、布団敷いてくれて、火を点けてくれたやつは若い男だった」
「なんだ使用人か」
「いや、俺も最初は使用人か、写真には載ってなかった兄弟かなにかかと思ったんだけどな… 
 彼女のだった
「ゲッ!先を越されたか!」
「6月に結婚した新婚だってさ。あの全国ペンションガイド、家に帰って調べたら1年前のやつだった。1年前の発刊っていうことは取材はもっと前だろ?情報が古かった…」
情報のせいか?
私はしょげているターホーを尻目に、その若い夫ももしかしたらペンション目当てだったのかもしれないなと思うのだった。
そのあと、バイクも何もないので、一人でトボトボと晴れ上がった雪道をバス停まで歩いたそうだ。若い主人が駅まで送ると言ってくれたそうだが、とても同乗する気にはなれなかったと告白した。
「むー、だから言ったろ、下手な鉄砲...」
「数打ちゃ当たるか」
馬鹿は死ななきゃ治らない。一日しょげても、前を向く。
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現在のフロント

その後、ターホーは懲りずに新情報を捜しまわって白馬のペンションのオーナーに年頃の娘がいることを突き止めたが、春になって私は八ヶ岳を辞したのでどうなったかは知らない。でも、今のソクラテスの妻がその人ではないことだけは知っている。

おしまい


当時は毎日がエピソードだった。私だけでなく、4人が4人ともたくさんいろんな体験をしていた。
それを話すのが楽しくて、テレビもラジオも必要なかった。
また何か思い出したら書き留めよう。
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 くだらん!

いよいよ日本語教室も始まった。早速に新しいチリ人の学習者が加わり、家に帰ってひと心地着いた午後11時半過ぎに中国人から来週参加のメールが届いて正月気分が完全に吹っ飛んだ。
昨日の夜はやたらと寒くて、ミニバイクで出かけたにしてはちょっと薄着だった。首とヘルメットにできた隙間を冷たい風が吹き抜けていく。サブっ!そんな寒さでターホーと八ヶ岳を思い出した。
ターホーが来てから1週間経った。大笑いしたあの日、つくづく我が友人たちの記憶の良さに畏れ入ったのだった。私の発した言葉をみんなよく覚えているよなあ。
そんなエピソードに掘り返されて記憶の底に眠っていた光景がまざまざと蘇ったので、また忘れないうちに書き留めておこう。
今日は個人的メモなので御用とお急ぎのある方はここまで。
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 フン、そんな暇ないよ。

例えばこんな話、表題を付けよう。
「ターホーのペンション計画」

新人当時、八ヶ岳で家の近いターホーは夜になるとたまに私たちの家に遊びに来ていた。また私が彼の下宿先に行くこともあった。
東京本社から八ヶ岳に出向した同期4人はそれぞれ仲が良かった。 まあ、コンビニや居酒屋があるわけでもなし、都会の喧騒とは真逆に近い、人家もまばらな高原では、お互いの話をする以外楽しみがなかったと言ってもいい。
4人とも別な部署に配属されていたから仕事中に顔を合わすことはあっても、おしゃべりをしている時間などなかった。(部署によっては昼食時間も異なった)それぞれが半年ごとに部署を変えられるので情報交換が必要だったこともある。
冬になると稼働率も下がり、その分帰宅時間も早くなったから私たちの交流も少しずつ増えて行った。
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その日も、雪が降り始めて夜はマイナス10℃くらいになった。
ターホーの下宿は母屋続きで暖かい。私は当たり前のように彼の下宿に行った。
赴任した時から彼の夢は自分のペンションを持つことだった。新入社員のくせに公言して憚らず、それは口癖のように聞かされた。
夏が終わり秋が過ぎ去り雪が降る冬になっても、まったくその夢は揺らがない。 ただ、毎月の給料とペンション建設費の乖離は甚だしく、彼の計算によれば現状の給料額ではペンションオーナーになるのは40年から50年後、当時の相場で中古を購入しても30年は節約生活が強いられる。
「お前さあ、それじゃあ家族どころか結婚もできないよ」
ペンションの多くは家族経営だ。家族の助力なしには無理がある。
「まずは共稼ぎすることを前提に結婚を考えた方がいいんじゃないの?それだって高いハードルだ」
ペンション
 八ヶ岳のペンション

その頃のターホーは(今もだが)まったくと言っていいほど異性に興味がなかった。
当時レストラン部門にいた彼は、その制服の着こなしのだらしなさとか言葉の不明瞭さを毎日のようにフロア主任から指摘され、朝が弱いこともあっていつも眠そうな目をしていた。
簡単に言えば“ダサい”。
金を溜めたいがために守銭奴のごとく1円たりとも無駄にしない。
私を含めて他の3人は夏すぎには中古車を買っていたが、彼は冬になっても会社から借りたカブに乗り、着ぶくれて丸々になった格好で八ヶ岳の吹きすさぶ風の中を20分かけて走ってくるのだった。
「マフラーがたなびいて格好いいだろ?」と彼は言うが、どう見てもダルマが首を絞められているようにしか見えなかった。
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 ターホーが下宿していた家(現在)

その日、彼が重要な計画を思いついたというので、どうせペンションの事だろうとは思っていた。夢を語るのはいいが、何度も聞かされてるといい加減飽きる。 だいたい、私には無縁だ。
どうせあいつの下宿に行ってもお茶一つ出てこないからと、私のとっておきのチョコバーを持っていく。そんなものさえ会社の土産物売り場にしかない。

「俺は天才的にひらめいた」
「ふんふん、で、何をひらめいた」
「今のままではペンションも退職後になっちまうだろ?」
「まあ、ペンション(年金)って元々そういうものだろう。老後のゆとりある生活ってやつだな」
「いや、それじゃあ困る。俺の豊かな人生は老後にあるわけじゃない。この会社に入ったのもここでペンションに必要な様々なノウハウを勉強するためで、40年働くなんて考えてもいない…」って彼の話はやたらと長い。
「だから、その天才的なんだらってなんだよ」
「むー、俺はこの2か月というもの全力で捜しまわった...」
確かに、私が来ることを予定していたらしくペンション関連の書籍や雑誌等がごっそりと置かれていた。
彼はその中の「全国ペンションガイド」(まあ、そんな題だった)のページを開き、
「これこれ。ここだ」と、隣県原村のペンション紹介の写真を指し示し、一人で悦に入っている。
もったいぶってるから全然その意味するところが分からない。
「俺は、決めた。今日ここに行く」
「は?だってもう7時近いぞ。予約してあるのか?」
「行けば、こんな寒い日だから入れてくれるに決まってる」
「おいおい、そりゃ無謀だろう」
この後、長々と趣旨説明される。
今の給料ではとてもじゃないがそれこそペンションなんて手に入らない。家族は必要だがそれも金がかかって、夢のペンションは遠のくばかり。このペンションのオーナー紹介を見て天才的にひらめいた。

「そうだ、ペンションオーナーの娘と結婚して婿入りすればいいんだ!」

まあ、確かにその写真には家族が載っていて、二十歳前後と思われる一人娘が可愛く微笑んでいた。
「な、いい考えだろう。むー、何度考えても俺は天才的だ」
「あのな…」
お前のような野暮でダサい男が一晩泊まったところで、その娘がどこの馬の骨かもわからないお前を好きになってくれるわけがない。だいたい長い冬を人も来ないような原村で過ごしているとは考えにくい。よしんば、その娘に会えたとして恋愛から結婚、婿入りととんとん拍子に行くものか。
などとそのくだらぬ案を理路整然と却下。
「ううん、確かにお前の言うことは説得力がある」ってさあ、お前以外の人間は誰でもそう考えるだろ!
「じゃあ、この計画を推進するためにはどうしたらいいんだ」
やめとけと一喝するも、なんだか本人の夢にケチをつけてるようで気がとがめた。
「そうだなあ、今のお前を改造しなきゃな。どう見たって“貧相”が服着て歩いてるようにしか見えない。それに、この娘だけをターゲットにするのはどうかなあ?下地が下手な鉄砲なんだから数打たないとな…」
とかなんとか、気が付けば思いっきり巻き込まれて、あいつの案を検討していた。
「まあ、10年くらいはかかるだろう。足しげく通い、親し気に話しかけられるだけでも時間がかかる。その間、おくびにも将来ペンションをやりたいなどと口に出してはいかん。それと並行してその娘の父親、つまりオーナーに気に入られるよう暇さえあれば雪かきだの下草刈だのをしなけりゃいけない」
「ふんふん。そうやって気に入られれば、自分の跡継ぎは俺しかいないってことになるな」
「そこが大事なポイントだが、そう簡単にはいかない。万が一、いや億が一、その娘とうまく結婚話が進んだとしてだ、彼女が諏訪に住みたいとか、東京に住みたいって言ったらどうする?」
「えっ?いや、それは困るな。だから、ペンションをしたいって言って…」
「甘いね、誰があんな人里離れて雪に埋もれたところで生活したい?さっきからお前がペロペロ舐めてるチョコバー一つ売ってないんだぞ。そんなところで育ったら普通便利な都会で暮らしたいって思うだろう」
「そんなもんかなあ…」
「そんなもんだ。だから結婚して仮に甲府かなんかに新居を構えても、信玄公のごとく3年喪を秘せ」
「それじゃあ、どんどん遠ざかるじゃないか」
「人間急がば回れだ。そうやっているうちにこのオーナーは還暦になるな。足腰がだんだん思うように動かなくなってくる。そこでお前が仕事を休んででも手伝いに行く」
「なるほど!」
「親の心配をしない子供はいない。白髪交じりの父が、腰が痛いだの、風邪で寝込んだのと体の不調を訴えるようになったとき、ふと横を見ると薪割してるお前がいるな」
「むー、なかなかリアリティが出てきた」
「そこでお前が一言」
「なんて?」
「お父さん、僕にペンションを任せてください」
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 ターホーの下宿よこにある池

なんか書いてて笑い疲れた。今日はここまでにしょう。
続きは明日にでも書こう。
今日は逃亡者がたまたま家にいるから、飯づくりがある。
家でゴロゴロしてないで、リルの散歩に行け!
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 本日の昼食、焼きカレー。


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