D旗たなびく

忘却甚だしく、メモ代わりにちょっと書くだけ。 コメントは受け付けていません。

かつて少年野球の監督をしていた友人タカハシ、そのチームが県大会出場となり隣町のグランドで試合をするからと昨日はそれに付き合った。
リルとたまに行く公園のグランドだったので、ボール好きなリルもつれていく。
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 ボール好き。

中学生のクラブチームで、リトルリーグでも部活の野球でもない。クラブチームの全国大会というのがあるらしい。日本の野球組織というのは幅広い。
それでも、年々出場チームが少なくっているのだとタカハシは嘆いていた。
私の場合、野球は見るよりする方が好き(もうできないだろうけど)なので、見ているとムズムズしてくる。中学生くらいの球ならなんとなくまだ打てそうな気になる。同じ意見を持つリルもグランドの外で見ているだけでは面白くないので、グランドに沿ってぐるっと散歩。
まあ、リスだの蛇だのを見つけてはギャンギャン吠える愚犬はやたらと目立つので、皆さんの迷惑にならぬよう、最後は誰もいない外野の外から子供たちの試合を見ていた。
勝った試合に応援していた父母たちは大喜びしていたが、私とタカハシは早々に公園を出る。
「一緒にメシでも食おう」と誘われたものの、試合が長引いてすでに1時近かった。
一番近い飲食店は、ボランティア後に行っている中華屋さん。
昼間に行くのは初めてで、リルを連れて行くのも初めてなら、一人ではないのも初めてだったから、奥さんはびっくり。飼い猫のタンも見知らぬ犬にびっくり。
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 はじめまして。

私お勧めの”上海風焼き麺”や”天津坦々麺”などに舌鼓みを打っていたタカハシだった。
リルは入れないので、外でお持たせ。
奥さんが気を使って水をくれたが、リルは相変わらず通りがかりの人たちに撫でられたりしてるから、
ゆっくりビールなどを飲み始める。
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  看板犬か。

数人の客が食べ終わって、店に私たちしかいなくなると奥さんはリルとタンの写真を撮ろうと写メをバチバチ、リルもとうとう店内に入って、ご覧のとおり。
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 こら、遠慮しろ!

最後はご主人まで出てきて爆笑の大撮影大会になった。
そのあとは我が家に誘って、パラソルの下でワイン。(ヤブ医者には内緒)
すっかり楽しんだタカハシは夕方ご帰宅。
今年になって愛犬、愛猫を失くしたタカハシだけに、リルやタンに会わせるのは無神経かなとも思ったけれど、犬猫の死は犬猫にしか癒せないと私は思う。
「動物って、すごいよな」そう最後に言い残していったタカハシであった。

本日も風強し。
この一週間で3回アルコールを飲んだせいか、腹の具合がいまいちで、なんとなく体が重い。(食いすぎか?)
それでも今日は実に清々しい初夏の日差し。リルの散歩だけはする。
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 気持ちいいよ~

午前中、実家に薬を届けに行った息子の報告によると、毎日毎日マグロの刺身ばかり食べさせられて、
「野菜が食べたい」という父が夕飯を食べに行こうと提案してきたという。
いつもなら野菜のついでにステーキの一枚も食べさせるところだが、どうも腹の調子が悪い。
簡単に野菜をたくさん摂らせるなら鍋だが、そういう時期でもない。
ふと先日家内と買い物ついでに食べたチャンポンを思い出した。
”野菜たっぷりチャンポン”なるものを提供している某ファストフードの店なら、スーパーのフードコートにある。ついでに、実家も我が家も食料品の買い物ができる。
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迷わず”野菜たっぷりチャンポン”を頼んだ父だったが、その麺の大半は息子の腹に収まり、母の頼んだ”野菜たっぷり皿うどん”の半分は私の腹に流し込まれた。我が家では食べ物を残すことはしない。
おかげで家に帰って胃腸薬だ。

明日が平穏な平日でありますように。




船底塗装後一度も乗っていない。天気に恵まれても風に恵まれない。
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その分、今週は友人たちとの接触が多かった。
中でも、元部下のKが真っ先にご報告をと1年ぶりに電話をくれたのが嬉しかった。
私が辞職した年に非常勤として雇い入れたKは、その後エンドウたちにこき使われながら2年ほどその仕事を続けたが、左手麻痺、車いすの彼を暖かくサポートしてくれたかというと首を横に振らざるを得ない。
障碍者の疎外感はとても敏感だ。できることを一生懸命やっても結果がついてこないと”邪魔者”扱いされる。施設のように経過の努力を評価してくれないので、投げやりにもなる。
私が招き入れたようなKだから、いつも彼の処遇が気になっていた。
エンドウが異動し、私の右腕だったMさんが異動して、彼が何のためにその職場にいるか後続の者たちが理解しないまま、冷ややかな視線を浴びせられ、彼も職を辞した。
その後、とあるNPO法人で事務仕事をしていたが、契約社員扱いで常駐スタッフとしての将来の目途が立たないまま、誰にでもできるようなホームページ更新の仕事にやりがいを見出せず、よく私に電話をかけた来たのが去年の今頃。
役所や一定規模の企業には、障碍者雇用枠と言うのがある。これは義務付けられているので、最低賃金で清掃などの単純労働をさせられている障碍者が多い。それもまた必要なことだが、障碍者は必ずしも知的障害ではない。Kのように大学出の肢体不自由者もいる。だが、現状はほとんどの企業が、”雇用枠があるから仕方なく”という観がある。なので、あてがう仕事も毎年同じ。Kのような肢体不自由者はむしろ清掃のような仕事は難しい。こんな企業がパラリンピックの協賛をし、企業イメージを上げるようなCMを流す。
雇用枠に甘えるな、自分で道を切り開けなどと言っては見るものの、障碍者という壁はとても高い。
NPO法人を3月で辞めた彼は、ハローワークに通い、リクルート会社の登録をして就活に励んだ。
以前のように、福祉協議会や福祉施設の斡旋には頼らなかった。
そのKから一昨日、連絡があった。
横浜の北部にある脳神経外科病院で一般職採用されたとのこと。
これは嬉しかった。本人もすごく喜んでいた。脳神経科の病院なら、彼の脳性小児麻痺の症状も理解してもらえる。一石二鳥じゃないの!
その弾む声に私もなんだかホッとして、「お母さんも喜んだろう?」と訊くと、「いえ、まだ連絡してません」と言うので、一喝!
君の後に続く者のためにも精一杯働いてくれよ。
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昨日はKの朗報でちょっと浮かれ気分。
山下公園に行き、少しだけ祝杯を上げる。
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平日にイベントをやっていることは少ないが、昨日はたまたまベルギービールのお祭り。
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さすがに、平日の午前中だけあって、人はまばらだったけど、こちらとしてはその方がよろしい。
バジルソースのフィッシュフリッタなども賞味しながら、豊かなひと時を過ごす。
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 がらーん。

今日はこれから近くの球場に少年野球の試合を見に来ているタカハシとこれから昼食。
いってきまーす。

船底塗装が終わって、さすがにくたびれた。ゆっくりグータラしたいところだが、午前中は恐怖の歯医者。
一体何をどうしてるんだかよくわからないが、たっぷり1時間かかる。その間一度だけうがい休憩があったきりで、ずーっと口を開けてる。これはもう拷問に近い。
最後は唾液が気管に入ってギブアップ。思い切りむせると、
「今日はこれで終わりましょう。最後にレントゲンを撮ります」
って、また局部X線。どうなってるのよー。
それでも受付で精算すると、150円。3割負担だとしても、最低賃金の時給にも満たない。レントゲン代は診療明細に入ってないし、どういうこと?患者に負担をかけたから、おまけしてくれたのか?
安けりゃ安いで疑惑が高まる。
途中パンを買って帰宅。固いものは食べるなと言われた。

また留守番させたリルと散歩がてら実家へ行く。
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 お散歩だよ~

今日は”母と過ごせば”の日。
父のデイサービスも3回目となり、何度も何度も説明しているから、やっと覚えてくれたようで、
「今日はお父さん、デイサービスなのよ」と私に説明。
買って行った大福やきんつばを嬉しそうに食べる。リルの躾けと大した差はない。当面はなにかおやつを買っていく必要があるな。
5分と持たない短期記憶だけに、弾んだ会話にはならないので、今日は昔話に話題を持っていく。
多少曖昧なところもあるけれど、古いことはちゃんと覚えていたりする。

母の幼少期は信州松本。本家筋は末社ではあるが諏訪神社の神官を務めた由緒ある家系だ。10人兄妹の末っ子で生まれたので、祖父母から兄姉、親戚からも随分可愛がられた。
終戦は小学校を卒業した年。
私はそれまでずっと松本に住んでいたのだと思っていたが、全然違った。むしろびっくりした。

祖母(母の母)が7歳の時に亡くなり、当時測量士だった祖父はそれを契機に東京に出てくる。
まだ太平洋戦争が始まる前で、日本が大陸に侵攻していた時代だ。実際、長男たちは満州開拓団として大陸に渡っている。(生きて帰ることはなかった)一番年の近い兄でさえも若くして軍属に志願し南方から資源を運ぶ輸送船に乗り組んでいる。
松本の田舎では測量と言っても、あまり仕事はなかったらしい。祖父は7歳の母を連れて東京は蒲田の萩中、今でいう京急大鳥居駅近くに部屋を借りる。東京という都会もさることながら海を見たことのなかった母には羽田辺りの浜が楽しくて仕方なかったらしい。
祖父に連れられて、谷中や巣鴨辺りにも行ったそうな。
蒲田の小学校3年生の時に太平洋戦争が勃発。戦争の特需景気に町工場の多い蒲田はお祭り騒ぎになったという。その俄か景気も翌年には一転、小学校4年生になった頃には祖父は測量の職を失い、蒲田の”大きな工場”で守衛となる。親子二人の生活も一変。家事一切を任されて、夜勤の日には学校から帰ると自分の夕飯をさっさと済ませ、弁当を届けに行くような生活が始まる。
月を追うごとに、物が少なくなり、祖父の給金も下がっていく。幸いにして大森には三番目だかの兄が工場勤めをしていたので、よくお金の無心に行ったのだという。10歳にして借金の申し出だ。
翌昭和18年になると戦況は悪化。母は学童疎開で信州に舞い戻る。当初は松本ではない小学校だったという。口減らしのためか、母の本籍を知った学校側はやがて母を松本の母校に転入させる。母校と言っても小学校1年時のわずかな期間しか通ってない。実家はすでに売り払ってしまっていたので疎開組の子供たちと小さい頃よく遊んだ寺で寝起きを共にする。
”東京の子”としては母たち疎開組は地元の子によくいじめられたという。
田舎なりに食べ物はあったが、地元農家の子たちは家族で作った農作物の多くを配給分として拠出させられてしまうので、疎開組の子供が盗っ人乞食のように見えたのかもしれない。
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 松本。

終戦の年、昭和20年3月。疎開中に小学校を卒業。母はその疎開生活がとても嫌だったので、父の住む蒲田に戻った。
しかし、母の目に映った蒲田の町は相次ぐ空襲と不景気で、荒れ果てていたという。
4月2日生まれの母は、蒲田高等女学校に進学。貧乏この上なく、着物を質に出して飢えをしのいでいたので学校に着ていくものさえなく、空襲で亡くなった先輩のお古を”貸して”もらったらしい。
女学校へ行ったら行ったで勉強などとは無縁な勤労動員。何だか分からない部品のネジ締めばかりやらされていた頃、4月15日の大空襲に遭う。大森蒲田の大田区は軍需品の部品製造を担った町工場が乱立していたから狙われやすかった。
4月15日の城南空襲は、これまでにない絨毯爆撃で蒲田地区は焦土と化した。親子二人が生き永らえたのは奇跡ともいえる。焼けただれた人やうめき声のする中、夜通し池上本門寺まで歩いたという。
かろうじて無傷で済んだ親子だったが、焼け出され、仕事も家も何もかも失った。
頼るところもなく、ぼろをまとった親子は食うや食わずで松本に戻ってくる。
が、松本の家も土地もすべて売り払っていた。本家の養蚕倉庫を改造してなんとか居住できるようにし、藁を布団に芋粥を食べ、本家から味噌や塩を借り、親戚中から食器などを譲ってもらいながら飢えをしのいでいた。
玉音放送は本家の居間にみんなが集まって聞いたそうだ。何を言っているか分からない放送なのに本家の長男は「嘘だー」と言って家を飛び出していったという。
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 かつて祖父と住んでいた養蚕倉庫の跡地。

かすかな望みを持っていた満州や戦争に行った兄たちの訃報が続々と入る中、母は松本中心部の新制中学に通うことになった。
親戚中から可愛がられていた母だが、言ってみれば居候にすぎず、肩身の狭い思いをしていた。それでも、年の近い叔母さんが、隠れて芋だの柿だのをくれたそうだ。これが本当に嬉しかったと涙顔になる。
祖父は測量の仕事に戻った。戦争で亡くなった人の相続や、戦災で境界が不明になった土地の測量仕事が舞い込んできたからだ。測量士も足りなかった。しかし、その代金は米や味噌といった食糧で支払われ、金にはならなかった。尤も、金があったところで役には立たない。
こうして納屋のような場所で3年間を過ごし、祖父の仕事も軌道に乗ってきた。わずかながらも金ができてきて、古着を買えるようになった。当時の母は縁日で甘いものを食べられるのが一番の嬉しかったという。

中学を卒業した母は地元松本のメリヤス工場で働くことになる。片道徒歩1時間の道のり。バスにすら乗れなかった。
が、2年半ほどでそこを辞め、輸出物の手袋を作成する会社で働くことになる。日給がメリヤス工場の倍だったというから、朝鮮戦争関連か?
そこで3年近く働いたという。
このころ祖父は山師に騙されて、また無一文になる。それが元で心労がかさみ、母が17歳の時に亡くなった。母は寮があるこの手袋工場しか行くところが無かったのかもしれない。寮の大部屋には畳と電球があったので嬉しくなったという。
ここまでは横浜とは全く関係ない場所ばかり、父と出会うまで残り1年を切った。

と、ここで父の帰宅。お話もここまで。まあ、後はだいたい知ってるから聞かなくてもいいんだけどね。
それにしても、よく覚えてるものだ。4月15日とかいう日付もすらすら出てきた。芋蔓の塩煮など見たこともない。
「そういう時代だったから」と何度も言う母だった。



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