なんだか動きが早くて、ついていけてないこの頃だ。
年明け早々訃報が入る。父の最後の兄弟姉妹で、父の97歳の姉が亡くなった。
日ごろ親戚づきあいなどしたことのない従兄たちは、こんな時に限って私に連絡してくる。
父の家の電話番号やら他の従姉妹たちの連絡先を訊いてくるわけだ。私も弟や親せきにその訃報を伝えていくから、伝えた本人がいかないという選択肢はなくなる。必然的に私がお通夜や告別式に出席せざるを得なくなる。訃報はいいにしても、いっそのこと葬儀は家族で行いますと一言添えてくれた方が気が楽なんだが。
私が行くとなると、一番血が濃い父も行かざるを得なくなる。こんな寒い日に黒服着て出かけること自体、死を招きそうだから、香典だけ預かることになるだろう。まあ、なんにしても私が代参で行かなきゃいけないわけだ。
亡くなった伯母は、それこそ小学生の時に2,3度父に連れられて港北区の団地に遊びに行った程度で、そこを引っ越して以来親戚の葬儀以外は会ったことがない。それでも私は毎年年賀状を出していた。
父も一番縁が薄い姉だとよく言っていたが、伯母の長男の仲人を引き受けた。その長男は何年かして離婚し、以来一切連絡がない。私もどこでどうしてるかしらない。
連絡を寄こしたのは末の弟で、一応大学の先輩にあたる。いかにも面倒そうな声で、なんで俺が?というイヤイヤ感がぬぐえない。
父は亡くなった伯母を偲ぶというより、甥や姪の今までの不義理に文句を言っている。そういう愚痴を聞くのも私の役目だ。
まあ、昔と違って親戚はむしろ厄介な存在になりつつあるな。
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 横浜大鷲神社の金毘羅さん。

その父のために、なんとか思い出の”黄色いカレー”を食べさせようとしている私だが、未だにOKが出ないでいる。時々、町の洋食屋に入って食べてみるが、同じものを作れるかというとこれが案外難しい。
また同じようにできても、そもそもその洋食屋のカレーと父の記憶とではまったく異なっていたりするから、いつも振りだしに戻る。
私の祖母が作ったという幻のカレー。
家庭で作ったのだから、今時のゴチャゴチャ香辛料が入った物じゃない。
昭和初期のカレーを再現しても、それは”祖母”の味ではない。
味の記憶というものは、その個人の舌でしかわからない。なので、何度も何度も挑戦するしかない。
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 昨日の試作品。全然ダメ。

カレーが画期的に変わったのは『バーモントカレー』かな?
いわゆる固形ルーの誕生が、それまでの家庭のカレーを一変させた。最近ではカレーは黄色でなく、茶色い。
私が小さい頃のカレーはS&Bの缶入り”カレー粉”で、それを油を浸み込ませた小麦粉で練り合わせたお手製のルーだった。多分給食でも、街の食堂でも使われていた思う。
戦前戦中戦後の空白期を除けば、昭和初期に家庭で作れたカレーは昭和30年代のものと変わらないという私の発想なんだが…
当時の洋食屋の味を思い出しながら、ああでもないこうでもないと研究を続けている。
あの当時、ニンジン、ジャガイモ、玉ねぎの定番三種の野菜は入っていなかったように記憶してる。
玉ねぎは必須だった。肉もあるか無いかの豚肉もしくは鶏肉で、自由化前の牛肉はなかなか一般家庭でも洋食屋でもお目にかかれなかった。ステーキやシチューはメニューにあってもそれは破格で子供の私にはとても食べられるような代物ではなかった。
多少とろみついたカレーをこねくり回していると、たまに指の先くらいのジャガイモを掘りあてて得した感じになったものだ。豚肉も二切れ入っていると”当たり”だった。
それでも、ラーメンが70円の時にカレーは90円だった。
全体は鮮やかな黄色で、さして辛くはなく、玉ねぎ以外の存在は希少だった。そこに赤いニンジンが入っていた記憶はない。ニンジンは学校給食だ。
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 なんでも食べるよ。

今回はカレー粉ではなく、ウコンとショウガをベースにしてみた。辛味には鷹の爪と白コショウを使う。クリームとハチミツも少々。具は牛肉のバラと玉ねぎのみ。
出来上がったものを味見してみたが、後味に苦みが残る。秋ウコンのせいだ。
こんなんじゃないよなあ。
まあ、ダメ元で、それを息子に持って行かせ、何がどう違うのかを御用聞きさせた。
「具が多すぎる。もう少し辛い。色ももっと黄色い」
「苦いって言ってなかったか?」
「それは言ってない。味は前より近いって」

カレーの黄色はターメリックだが、日本ではウコンとして知られている。
当時、輸入物のターメリックなど売ってもなかったはずで、せいぜいカレー粉に混ざっていただけ。
ただ、少なくとも今のカレー粉にはその他の香辛料も入っているから、まっ黄色にはならない。
むー、試験管がほしくなってきた。
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