D旗たなびく

忘却甚だしく、メモ代わりにちょっと書くだけ。 コメントは受け付けていません。

2017年06月

2017.6.27

梅雨らしいどんよりとした日が続いているが、それに合わせるかのように軽い風邪をひいた。
エレメントを替えた翌日ぐらいから喉に痛みが出て、その日の夜には水を飲み込んでも痛くなった。熱は出ないのだが、物が飲み込めない。
土曜、日曜で売薬を飲み喉の痛みはおさまったが、今度は気管支が痛い。
月曜になると咳が止まらなくなったので、仕方なしに本日ヤブ医者へ行く。
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    山形から届いたサクランボ

いつもそうだが、ヤブ医者は病名を言ってくれない代わりに大量な薬を処方する。
どれか一つは当たるだろう、という感じである。
それを持ってインチキ薬局へ行くと、勝手にジェネリックに変えられて、大した説明もしないで渡される。
本日の処方は4種類。そのうちの3種は朝昼夜に飲むとある。
既往症の調剤と合わせて朝晩は7個の錠剤やカプセルを飲まなくてはいけない。
だからさ、飲み込むのが痛いんだよ。

天気予報はまるで当たらない。当日になると多少当たるが、舌の根も乾かぬうちに違う予報を出している。
まあ、当たらないから昨日はリルとマリーナへ行く。
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   涼しいんだよ。
    
ここのところメンテばかりだったから、機走でその辺をぶらつく。
オイル交換もしたし、エンジンは絶好調だ。
こちらが直れば、またあちら。
ヨットは当面大丈夫だし、ミニバイクも直した。今ダメなのは自分の体だ。
一年中、何かを直しているようだ。
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     甘えん坊のリル

ここのところ、あまり遊んでやれなかったリルだが、私が本調子でないのを悟ってかここのところ大人しい。
ヤブ医者の薬を飲むとすぐ眠くなるので、薬が切れて手がブルブル震えだす頃でないと散歩にも行けない。
明日も歯医者とボランティアだしねえ。

家内の実家や友人から、またサクランボがごっそり届いた。
サクランボは傷むのが早いので、毎食時ノルマが課せられる。
喉が痛いなどと言っても、お目こぼしはない。
せっかくのサクランボなのに、私には拷問に近い、だいたい、味覚をほとんど感じない。
今日も早く寝ようっと。




2017.6.22

シリンダーヘッド等の交換修理代金を支払いにマリーナの海王さんの所に行く。
長距離運転と昨夜のボランティアで、さすがに疲れを感じていたから、端からヨットに乗ろうなどとは思ってない。
でも、せっかくここまで来て何もしないのも時間の無駄だからと、海王さんにオイルとオイルエレメントを揃えてもらった。ついでにオイルチェンジャーも借りる。
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最後にオイル交換してからまだ半年も経っていないが、シリンダーヘッドも新しくしたし、これから猛暑の夏になるとオイルの劣化が著しいので、ここはすっぱりあたらしくしよう。

オイル交換自身はそんなに難しくないのだが、一緒に替えるオイルエレメントの着脱でいつも失敗してはオイルまみれになっている。
今日は万全を期し、あえて白いズボンなどはいて挑戦。自分の習熟度を計る。

さあ、始めようかと乗り込んだところで、
「アホイ!」と声をかけられる。このYBMでそう声をかけてくるのは二人しかしない。
隣のポンツーンを歩いていたのは”教授”だった。
彼の自作ディンギー「ナンシー号」の進水式以来だから、三週間ぶり。ただ、なにかバタバタとしていたからそれがずいぶん前の事のように感じる。
Beachboys号の船長も一緒だ。
今日は船検の中間検査で来たという。二人して御来訪してくれたのでリルは大喜び。
自作の本棚が見たいという教授に図工2の神髄を見てもらう。
しばらくお話をしてから、これから二人で食事するというので、教授にマックの出前をお願いする。

で、早速にオイル交換。
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エンジンを10分ほど動かしてから、30分待ってチェンジャーに古いオイルを吸い取らせる。
新しいオイルをギヤに0.2リットル、エンジンに1.3リットル。まあ、だいたいこんなもんだ。実際の容量はもう少し多いのだが、古いオイルがどうしても残るからこの程度でとどめておき、後はゲージを見て少し足したりする。

次に問題のエレメント。真横に付いてるから、オイルレンチで緩めた後、クルクル回してスポッと外すと中の真っ黒なオイルがごぼっとこぼれる。最後の一回しの時にウェスをあてがって、上向き加減で抜き取ると被害が少ない。で、即ビニール袋に入れる。
結局はどうやっても多少こぼれるけどね。
今回はまあまあ。
被害は最小限に、そして服も汚さずに済んだ。まあ、手の方はベタベタになるけど…
新しいエレメントは装着時パッキン部分にオイルを塗る。
この作業はどうあっても写真は撮れないなあ。そういう余裕はないね。
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  ちゃんと見張ってるんだよ。

今日は湿度が高くて、キャビンは低温サウナ状態。こぼれたオイルよりも流した汗の方が多かったんじゃなかろうか?
全て終了させて、エンジンを回してみると、そりゃあもう実に軽快な音。イイネ!

エンジンルーム下をウェスで拭いていたら、丁度教授がマックを持ってご帰還。
油まみれの手をぬぐって、コクピットで食べる。オイル味のフレンチフライもなかなかおつなもの、でもないか…
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 クン、クン。これもいい匂いするよ。

Beachboys3人組は今夜船上パーティーになったらしく、教授も夕刻まで時間を持て余しているご様子なので、本当なら一緒に帆走でもしたかったのだけれど、完全にベタ凪。
私もしとど汗をかいて、余計疲れたからしばらくコクピットでおしゃべり。

オイル交換はこれで終わらない。
チェンジャーに溜まった古いオイルをヤードの廃油庫に捨てなければならない。劣化した硬いオイルだとこれに結構時間を取られる。
今回はまだ新しめのオイルだったので、割とサラッと捨てられた。

教授とポンツーンを散歩して気になるフネを見学。
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また、フネに戻って、教授差し入れのチョコ入りスコーンでおやつ。
リルもしっかりお余り頂戴し、ご機嫌だった。
今日は教授とたくさんお話ししましたあ。

明日こそグータラパパするぞ!



2017.6.20
6/18から1泊で今年で23回忌となる友人の墓参りに行ってきた。
オタマ”の亭主だった彼とはたまたま大学の同期だったが、在学中は海かバイトかという生活で家にもあまり帰ったことがない私は、当然学部も違う彼とは会ったことがなく、卒業して10年後に職場で知り合う。
知り合った時には肝炎で長期療養しており、職場復帰して間もない頃だった。
いつもニコニコ笑っている彼と濃密な友人関係を築けたのは、彼の満ち溢れる好奇心のたまものだ。
今にして思えば、あの30代前半の時期は友人関係の大きな絆を手繰ったような季節だった。
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彼の女房の”オタマ”や一子コータローが深く関わってきた。
ヨット部の亡き同期ノブシロやアダチ君ともつながっていった。
私の結婚式の司会も彼が一役買ってくれたし、アダチ君の結婚式にも彼は一家三人で福島まで出かけていった。
桧原湖の帰りにはみんなでワイワイ押しかけて亡きノブシロの家に泊まったりもした。
知り合ってから家族同士の濃密な時間を過ごしたにも拘わらず、その後わずか8年という歳月で彼は天に召された。
なので、愚息もアダチ君の息子も彼を知らない。
あれから、22年が経った。

彼の墓は新潟県見附市にある。
恥ずかしながら、一度も墓参したことがなかった。3回忌、7回忌等々節目の年にはオタマを家を訪ねて位牌に頭を垂れても、命日である1月は雪深く、見附に分け入ることができなかった。
こんな時季外れに訪れるのも気が引けたが、せめて自分が動けるうちに一度は墓参しておきたかったのだ。
彼がどんな場所に生まれ、どんな風景の中で育ち、どんな少年時代を過ごしてきたのかを垣間見たかった。
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       まだ残されていた彼の生家。

相変わらずの弾丸墓参でせわしないが、私は持病で新幹線には乗れない。
「国境の長いトンネルを抜けると、そこは雪国であった」という川端康成の『雪国』を出かける前に読み直す。
半世紀前の見附はむしろ『雪国』の方がその雰囲気に近いだろう、そう思ったのである。
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       信越本線見附駅

が、見附だけは時計の振り子がゆっくり動いていたのかもしれない。(見附にお住いの方、申し訳ありません)
古いシャッター商店街、平面的な街並み。
友人の家もそうだが、100年以上も前に建てられた家が解体もされずにたくさん残っている。

見附市は繊維の町として知られていた。友人の父も祖父もニットを中心にした繊維工場を経営していた。
今でこそアパレル業界などと言うが、当時の繊維産業は戦後復興期、経済成長期の主要輸出品目だった。今の自動車産業と同じような基幹産業だったと言っていい。当然経済摩擦が引きおこる。
1971年の日米繊維交渉を皮切りに、ニクソンショック、引き続くスミソニアン協定と、輸出制限から始まった日本バッシングは1ドル360円から一気に308円まで引きあがり、輸出産業とりわけ繊維産業に大打撃を与えて見附は沈んでしまった。友人の父親の会社も倒産。彼は二束三文の株券を握らされて大学に入った。
本来であれば彼は大学を出たのち、4代目として家業を継ぐはずだった。それが、むしろ口減らしのような恰好で東京にやってくる。
深く聞いたことはないが、その父親も在学中に亡くなった。 
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       見附の町

バイトをしながらなんとか大学を卒業したころ、病魔がジワリと忍び寄る。B型肝炎。
天国と地獄の狭間を歩きながらも、彼はいつも笑顔だった。決して過去を振り返らず前だけを向き、楽しいことを積極的に受け入れた。
彼を支えたオタマの存在が大きい。
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    飲めなかった酒と、大好きだったタバコを供する。

彼はいつも私を家に呼んだ。なので、彼と付き合うのはオタマやコータローとも親しくなることを意味した。
私と彼が同じ職場にいたのはたった4年。最初に会ったのは当の本人ではなく、職場に病状報告に来たオタマの方だ。
こんな話をしてると、三日ぐらいかかりそうだから、また折を見て続けよう。


なにしろ初めての場所で、地図の読めないオタマの説明だから、ちゃんと行きつけるのか不安だった。
寺は分かっても墓の場所が定かでない。
当日はオタマに家にいろと言い、これだという墓や生家を見つけては写メを送る。その挙句に電話。
まあ、とにかく墓や生家は分かった。通っていた小学校や中学校は今はもうない。
墓の場所を確かめてから供花や線香を買いに出る。
が、これが全然見当たらない。
コンビニに2軒入って花屋を聞くもバイトの兄ちゃんたちは全く知らず、たまたま声をかけてくれた若い奥さんに教えてもらった花屋は休み。
寺の参詣客にも、掃除してる寺男に聞いてもなしのつぶて。
「スーパーでも行けばあるじゃろね。あ、あのスーパー、先月つぶれたわ」
ってな具合で、花屋探しで小1時間。隣の三条市まで行ってしまった。
仏具、石仏、セレモニーホールなどはたくさんあるのに花屋がない。
結局、たまたま目に入った国道沿いのコメリに入って花と線香を買う。

彼と独り言の会話をし、一緒にタバコを吸い、彼の育った町を遠望する。
隣市、長岡のベッドタウンになりつつある見附市だが、ところどころに曲輪の痕跡が残る街道や、雁木の名残を引きづった家屋を見ていると、彼がなぜあの時期に東京の大学に出たのかが薄っすらと分かるような気がする。
そう言えば、あの頃の首相は地元新潟の田中角栄だった。
「日本列島改造論」の陰で外圧に屈して地元に犠牲を強いたわけか。

花屋を見つけるのに苦労した挙句、昼食が遅くなった。見ればすでに2時近く。
ところが、今度は飲食店がない!たまに見つけるラーメン屋も「本日休業」。
おいおい、今日は日曜だぞ。
食い物屋を捜してるうちに長岡に入ったが、よほど外食とは縁遠いのか、たまに見つけるファミレスも長蛇の列。
ラーメンの「幸楽えん」に人が20人くらい並んでいるのを始めて見た。
やっと昼食にありついたのは長岡インター近くの中華屋。油淋鶏を頼んだが、これが実にまずい。素材だけくれれば私が調理したいくらいだった。こりゃ、空いてるわな。
この辺はコシヒカリの米所。この辺の人は米がうまいから外ではあまり食べないんだなあ、きっと。
そのままインターに乗って、湯沢まで行く。(関越トンネルを抜けたら闇夜になる)
当然素泊まり。でも、皆さんが宴会場で盛り上がっている間、50人は入れそうな温泉浴場を独占できた。

温泉街で割烹料理店に入り、イカの煮物や岩ガキなどを食らって久保田を1合。しめに新潟名物へぎ蕎麦を食う頃には、さすがに疲れたか、ぐるぐる回ってホテルに着くのが精一杯の千鳥足。
彼の事を反芻する間もなくバタンギュー。
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なんだスキー場の隣じゃないの。

たっぷり寝た甲斐あって、朝は高原の風に吹かれて一段と清々しく、こんな所ならリルを連れてくればよかった、などと考えていたら、留守番のリルが妙に心配になって寄り道せずに一直線に帰宅。

で、今日は朝からヤブ医者と整骨院。
なぜか血圧が正常値になっており、これも一つのご利益か?
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   いい子でお留守番してたよ~

明日は歯医者とボランティア。
これから生徒さんがさっきメールで送ってきた作文の添削だあ。



         



2017.6.15
昨夜のボランティア、また新しい生徒さんが来た。
イタリア、バングラデシュ、ヴェトナムの三人の男女。
どうやら、私が作った日本語教室のホームページを見てきたようだ。結構、役に立ってるじゃないの。
そのせいもあって、私のスマホは問い合わせメールがよく来るようになった。
今日もリルとセーリング中に英文メール。
陽光の中では手元の小さな文字は読みにくいんだよなあ。
微風だったので、キャビンの暗がりで返事を打つ。
ってさあ、こういう時ぐらいそんな世俗から離れていたいんですけど… まあ自業自得か。
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東の微風から始まった今日のセーリング。
夏雲と海と空のコントラストがとても爽やかな感じ。この時点ではまだ23℃だったからねえ。
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風が少しずつ南に振れて、手ごろな弱風になった頃には、その爽快感に昼飯を食べるのがもったいないくらいだった。
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リルも、たいしたヒールもしてないのにセイルのが作る影から這い出てきて、気持ちよさそうに海を見ていた。
こんな時はなにを考えてるんだろう?

正午を1時間ほど回った頃、ベタ凪になった。浦賀7番の浮標手前だったが、ここでUターン。
ランニングでバタバタとセイルがはためく中、リルとオニギリ。
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    「ヨシっ!」って言うの待ってるんだよ。

この時間になると25℃を超える。リルにはちょっと暑いからパラソルで日陰を作り、濡れ雑巾を置いてやる。
暑さになれてないリルにはこの辺が限界。
オニギリ食べてからは、”一発でかかる”エンジンを回して機帆走。
走っていれば風が来る。
福浦沖で真南の順風が。これが実におあつらえ向きの風なんだが、リルのためにそのまま帰港。

帰港後にバナナを二人で食べる。
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  もらえるかなあ...

家に帰ると、海王さんから連絡。
先日のシリンダーヘッド等の交換修理費、しめて157,086円也。
Hさんが私の財政事情を考えてくれて、とても安くしてくれたのだと分かった。
どうもありがとうございます。
が、痛い出費には変わりないな。
もう破れかぶれで、マリンオイルとオイルエレメントもついでに注文。
せっかくヘッドも新しくしたんだし、オイル交換ぐらいしないとなあ。
貧乏船主はつらいよ。
  




2017.6.10

シリンダーヘッド交換後、翌日には久しぶりにリルとオニギリ。
エンジンは快調。(ちょっと音がうるさくなったような…)排気排水はばっちりだった。
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リルも久しぶりに海に出てご機嫌だった。
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   おにぎり食べたよ。

ボランティアでは3年以上在籍した劉さんが卒業することになり、律儀な彼女はきちんと服を整え、ちゃんと化粧し、皆に餞別のお菓子を持参した。
よく3年以上も続けてくれたことに感謝。話す方は流暢とまではいかないが、聴くことに関しては日常生活にまったく困らない程度になっている。
私が最後のサポートだったが、4人の先生に支えられ、ほとんど話せなかった日本語や日本の慣習まで習い終えた。あとは生活の中で語彙が増えていくだろう。
また遊びに来てほしいと伝える。
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雨の降った木曜には、ミナト散歩。
この日、梅雨入りしたと発表があった。
平日の雨上がりだから少しは空いてるかなと思ったけれど、どうして、どうして結構人がいる。
コクリコ坂

中華街で昼食。食べ過ぎた。
なんというか、ミナトを見て育ってきたので、月に一度くらい足を運ばないと忘れ物をした感じになる。

金曜には久しぶりのセーリング。
微風だったが、リルと帆走するのは久しぶり。感覚的にはちょこっと自転車で出かけたくらいなのだが、こんなことも日常になってる。海のそばで育つと海の上にいないと窮屈に感じることがある。
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ただ、さすがに微風だと暑さを感じる。
リルにはできるだけ日陰を作ってやるが、これからしばらく日中を避けないとなあ。
夏が本格的になったらリルはエアコンの下で留守番だな。
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   夏は苦手だよ。

乗った翌日はほとんど常習化してる整骨院通いもまた日常。
母の通院や薬のお届けはほぼ息子の役割になりつつある。免許取らせておいて良かった。

今日はハラ先生から”明日葉羊羹”なるものが送られてきた。
御年70歳の先生が大学院に行き始めたのがこの4月。今度は大島の海洋高校に短期の非常勤に行くという。
それも来週からだ。
いやあ、いったいどこからそんなバイタリティが生まれてくるのか。
夏季休業に入る7月20日までの一月ほどらしいが、大島へは通勤できないから東京都の職員住宅に入るらしい。電話をすると引越し作業で大わらわだった。
引越代金は出ないし、日勤報酬だから、下見含めてほとんど金にならない仕事だ。損得だけではとてもやれる仕事ではない。それに大学院の講義だってある。そちらはネットとメールでやりくりするらしい。
「もう、ボランティアみたいなものですけど、高校で教えられるのは楽しみなんですよ」
と、笑いながらさらっと話す。
頼まれごとならいざ知らず、自ら進んでなにかに挑戦しようとするハラ先生はすごい。そういう人生をむしろ楽しんでいるようにさえ感じる。
「私たち(夫婦)には”老後”はありません」とまで仰る。
一見突飛で無計画な感じがするのだけれど、彼女には自分の限られた命をどう使うのかというはっきりした目的があるように思う。
そのハラ先生が、なんで私ごときを相手にしてくださるのかは皆目見当がつかない。
「あなたも頑張ってね」と背中を押されているような気はするのだが…
雑念が多いからなあ。

ミニバイクのバッテリー上がる。
こんどはこっちかよ!

     




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