D旗たなびく

忘却甚だしく、メモ代わりにちょっと書くだけ。 コメントは受け付けていません。

2018年08月

八ヶ岳は一度住民票を移した場所である。
結婚するまでは、何かの手続きのために住民票を役所に出してもらうたびに、「山梨県○○町▽△より転入」と書かれてあった。第3の故郷である。
ターホーが退職して甲府に移り住んだというハガキをもらって以来、甲府や八ヶ岳に行きたいと思っていた。夏休みで留置されている愚息にリルの面倒を見てもらうことが可能になったので、2泊3日の一人旅。なんとか8月に出かけられる。
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初日はお日柄もよく、鼻歌交じりで解放気分。
が、中央高速が事故で簡易工事の大渋滞。そこで東海道を走って河口湖まわりにルート変更。
先月家族旅行した時は大雨で、ほとんどその雄姿を見られなかった富士山も、きれいに見ることができた。
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別に観光地を回るわけじゃなし、どこかでリルを遊ばせることもない。何時にどこへという指定も計画もないから、むしろ旅程を楽しむ。
高速を走ったり、一般道や懐かしい林道をフラフラ走りながらも、昼前には清里に到着。
標高1500mだと下界とは比べ物にならない涼しさ。なんと24℃。高原を渡る風が清々しい。
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こうなるとリルを連れてこなかったことが悔やまれるが、今回は友人と会うのが目的。
少なくとも私自身のご褒美だからね。

八ヶ岳は友人タカハシと縦走したことがある。いつだったか忘れたが若い頃だ。
天女山から入り、権現岳、赤岳、横岳とテント背負って登った。
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 主峰赤岳

赤岳山頂からの眺めは目に焼き付いていている。奥穂高岳のある北ア連峰、御岳や駒ケ岳の中央アルプス、甲斐駒ヶ岳の南ア連峰に富士、奥秩父の連山など360度の大パノラマだった。富士山を除き皆登ったことがある懐かしい山々だ。
権現の鉄はしごや鎖場など足がすくむような難所、赤岳の肩でテント張ったなあなどと見上げていると、若き日の活力が湧き起こるような錯覚に陥る。
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 甲武信ケ岳

八ヶ岳で働いてからと言うもの、海賊稼業はあきらめ山賊を目指そうかと思ったことさえある。
あのまま八ヶ岳でターホーたちと働いていたら、今頃はどこかの山小屋の親父になっていたかもしれない。

冷房の要らない清里で食事をし、清泉寮でソフトクリームを嘗めながら、語りつくせぬ思い出を掘り返していたら、急に亡き同僚と住んでいた民家の近くに行きたくなった。
あれから40年、その時でさえ廃屋同然の古家だったから、とっくにないだろうと思っていたが、なんとかその形をとどめる程度には存在していたのでびっくりした。
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貸主の母屋はきれいに改築され、桑畑はなくなっていたが、恐ろしく寒い冬を二人で過ごした廃屋は朽ちるままになっていた。挨拶の一つもしようかと思ったが、その当時の大家が生きているはずもなく、当時幼稚園に通っていた男の子が主になっているのだろうと思ってやめた。覚えているはずもない。
でも、山河はあの時の風景だ。
300mほど離れた溜池のようなみどり湖には当時のターホーが間借りしていた民家があったが、そちらも同様に改築されていた。
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 みどり湖。干上がっていた。

在職中、タカハシが監督をしていた少年野球チームが合宿し、練習していたグランドも見に行った。
当時は新設の複合型体育施設だったが、40年経ってもなにも変わってない。というか、全然使われてない。
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その日はかつての職場に泊まる。
勿論当時新入社員だった私を覚えているスタッフなどいるわけもなく、シーズン中はバイトだけでも200人近く雇うので、むしろ私はマネージャーのような感覚で彼らの仕事ぶりを見ていた。

翌日は朝から小雨が降り始め、やっぱりリルを連れてこなくてよかったと思ったが、朝方の10℃台の快適さは分けてやりたいと思った。
白樺湖まで足を延ばすと本格的な雨になってきたので、諏訪湖へ出る。
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外国航路の船員だった伯父が生前住んでいたところで、私が八ヶ岳で働いているのを知ってわざわざ会いに来てくれたことがあった。
母方の系譜は代々、諏訪神社の神官で、松本の末社を預かっていたので、ことさら諏訪神社に対しては幼い頃より植え付けられた畏敬の念がある。
ここまで来て詣でなければ罰が当たるな。

諏訪神社は古事記によると大国主命の次男が「国譲り」に反対し、相撲で可否を勝負したが負けたために諏訪の地に飛ばされたとある。なんとなく情けない由緒なのである。
出雲大社にも土俵があるが、諏訪大社にも立派なものがある。
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 下社秋宮

全国に末社を持つ諏訪神社だが、正式には諏訪大社といい、諏訪大社は四つに分かれて点在する。
上社本宮、上社前宮、下社春宮、下社秋宮の四社で、前宮にあっては行政区画上茅野市に属している。
それぞれ時代に翻弄された経緯がうかがえる。
なので諏訪大社に詣でるというのは最低この四社に行くことを意味するが、それほど暇はない。
秋宮と本宮で勘弁してもらう。
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 上社本宮。

諏訪神社と言えば、7年ごとに行われる御柱祭り。怪我人続出の上死人さえ出たりする。
この祭り、地元出身の者しか参加できない。松本で生まれて戦後焼け出されて引っ越してきた伯父には、諏訪神社の神官の子でありながら、その御柱祭りの参加資格がなかった。従弟にあたる伯父の子は歴とした諏訪人なので、御柱に参加できる資格を持っていたが、あんな恐ろしい祭りに参加したくないと信州大学へ逃れ、茅野市の某電子機器メーカーに就職し、そののち京都に移り住んだ。
で、最近は少子化もあって参加資格を見直そうという機運があるらしい。

雨が降ったりやんだりする中、甲府に至りホテルにチェックイン後ターホーと会う。
彼の住まいから1ブロック離れたホテルで待っていたが、そのホテルさえまだ知らないオッサンはフラフラと通りの向こう側を行きすぎようとしていた。どうも私の友人たちは方向音痴が多い。
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 おーい、ターホー!

その日、彼の住むマンションの周囲半径100mほどの場所でコーヒー店、居酒屋、ラーメン屋と回り8時間以上も語らった。
医師の指示に従い、私はその間にビールをジョッキ半分、下戸のターホーは一滴のアルコールも飲まず、話通しだったが、昔話をしたのは5分ほどだ。
7月に退職したターホーはこれからの第二の人生をどう生きていくかを。私はとても多忙な日々の話をしていた。
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 ターホーのマンション。

居酒屋を出てホテルに帰り、フロント前で「また来るよ」などと言っていたら、彼は急に腹が減ったなどと言いだし、仕方なく近くのラーメン屋に入る。ラーメン一杯で2時間近く店の一角を占拠し、酔っぱらいの大声に負けじと声を大にして会話。終わりごろ彼の奥さんから携帯電話の呼び出し。
とっくに午前0時を回っていたから、心配したんだろう。店がうるさいからその電話で話す彼の声まで大きい。みんな聞こえる。
ああ、我が友人には恐妻家が多いんだよな。ラーメン食べたいと言ったのはターホーなんだけどなあ。私はいつも奥方連中に評判が悪い。

翌朝は飯も食わずにホテルを出て、途中勝沼のブドウ園による。40年前からこちらに来ると必ず寄るブドウ園だ。威勢の良かったおばちゃんも今では90のお婆さんだが、それでもブドウ園で働いている。
「役に立ちゃしないんだけんど、動けるうちは働かせてもろうてるんでねー」
私のような浮草者には耳が痛い。
お土産のブドウを買って、リルが待つ家路を急ぐ。
途中実家に寄ってブドウなどのお土産を渡したが、昼前には家に帰って、ゴロゴロしてる巌窟王にブドウを食わせてやった。
リル!寂しかったなあ。お前も食べな。
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 おかえり~ で、すぐ散歩!

相変わらず、食う寝る遊ぶのリルでしたあ。ブドウ園で働け!




今日も残暑どころか、猛暑日となった。
あまり使わない自室のエアコンだが、こんな週末は使わざるを得ない。
が、全然冷気が出てこない。
買い替えて3年だから、そんなバカなことがあるかと室外機を点検すると、先日の台風と大雨で落ち葉がくっつき薄汚れていた。
先ほどまで(昼下がりの一番暑い時間にだ)室外機の洗浄とフィルター清掃。汗だくになって、のぼせ気味。これじゃあなんのためのエアコンか分からん。
まあ、ちゃんと復活したけどね。でも、もうなんにもやる気がせん!
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 外の方が涼しいよ。

那須の合宿から戻った愚息は、実家に土産を持って母の薬を届けに行った。(なんでうちにお土産ないのよ)愚息の報告によると、エアコンを点けておらず、私が買っていった冷風扇には水すら入っておらず、家内が買って取り付けたばかりの三本のすだれは風で舞い上がって外れていたとのこと。
だいたい、エアコン点けても母が窓を開けるから意味ないんだけどね。
お中元で送った野菜ジュースは常に冷凍庫にあって、1時間ほどしないと飲めない。だから愚息に自販機で缶コーヒーでも買って行けと言ったが、その小さな缶コーヒーは愚息がすだれを直してる間に母に飲まれた。
まあ、いつもこんな感じ。

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軽微な損傷で済んだJollyhot だが、バックヤードが混んでいて上架は9月上旬になると言う。オイオイ。
台風だの大雨だのが続いていて、ヤードの作業が遅れているらしい。
これだけ暑いと乗る気にもなれないが、涼しい日があったら夕涼みでもしよう。まったく、ろくでもない夏だな。

こんな中、アダチ君から手紙が届く。
亡きお姉さんの足跡を辿りに広島へ行ってきたらしく、相変わらず写真ばかりの手紙だった。
広島平和記念資料館には平山郁夫のタイル画が展示されているが、そのタイルのワンピース毎に募金者の名前が入っていて、アダチ君のお姉さんは彼の名前で募金したという。
そのタイル画を見に家族で広島に出かけたのだった。
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アダチ君のお姉さんは、とても友好的な土人で、いつもバカなことばかりやっていた我々の唯一の理解者だった。彼女自身、とても活動的でガンに侵されながらも海外旅行していたような女性だ。
若くして亡くなったが、私たちが三十路を越えても、”いたずら小僧たちの冒険”にいつもキラキラしたまなざしを送ってくれた。ナンシーのDNAを持った人だったとつくづく思う。
私にとっても彼女は別格の存在だった。
「なんで君の名前だったんだろうね」
「バトンだったのかもしれない」
アダチ君も彼のお姉さんも、平和主義者だ。とりわけ原水爆に関してははっきりとした信条をもっている。
我々が小さい頃は冷戦時代で米ソがこぞって原水爆実験をしていた。原爆を落とされた広島、長崎はもちろん、横浜にもまだ戦争の爪痕が所々に残っており、日米安保反対のデモが大きな学生運動に発展していった時代だ。
多感な女学生だったお姉さんは、そんな暗い時代をしっかりと見つめていたのだろう。
平和で明るく、楽しく人生を生きることが彼女の矜持だったのかもしれない。
愚かないたずら小僧で、いつも先生や親に叱られていた私たちを、いつもニコニコしながら興味深く見守っていたお姉さんには、それが”平和で楽しい日常”に見えていたのかもしれない。
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そういう偉大なる姉の供養を兼ねての広島行きだった。
それにしても、家族三人で広島1泊っていうのはもったいない気がする。新幹線に乗りたかったのか?
家族の日程を合わせるのは難しいよなあ。

この夏は台風で桧原湖キャンプもできなかったから、アダチ君とも会えずじまい。
1年に1度しか会えあなくなった同盟者と、そんな話をランプの灯の中ですることもできなかった。
8月にどこにも行かなかったのは、仕事に追われた10年前以来。
実家のことが心配だけど、息子も帰ってきたことだし、ボランティアはまだ夏休みだし、ターホーのところでも行くかな。
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 そういえばリルも行ってなかったなあ。



ぶつけられたJollyhot だが、海王さんの点検ではFRP等の損傷はほとんどなく、表面のゲルコートが剥がれただけのようだ。
バキっという音は阿保船長の懸念通り、加害者FB艇のエンジンカバーの割れた音だったらしい。船外機再上部のプラスチックカバーはミニバイクのボディ並みの薄さだから、さもありなん。それにしても大きな音だった。
で、ゲルコートのタッチアップで済みそうだ。ついでにハル磨きでもしよう。春の船底塗装ではパフ掛けプロのエンドウがいなかったので、すでにハルはくすみ、水垂れの痕が幾筋か見える。
少なくとも8月中には戻ってきそうだ。よかったあ。
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週明けからまた暑さが戻ってきたが、午前中や夕暮れ頃はリルも耐えられる。
日中はまた二人だけの生活になったので、それなりに散歩に行っている。昨日は少し床屋さんもしてやったから、なんか嬉しそうだ。
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さて今日は父のために申し込んだ在宅診療サービスの初診。
初診とはいえ、在宅診療システムの説明もあるし、診療費の振込関係もあるので長くなるだろうと予想していた。ケアマネも同席したいというので、是非にとお願いした。
あ、っていう事は座敷での説明っていう事だ。困ったなあ。
実家にはエアコンが2台しかない。かつての私の部屋と、今は父の寝室と化している茶の間でそこはリビングと共通。だが、接客用の座敷にはエアコンがない。っていうか、南と西に窓がある実家で一番暑い部屋だ。せめて冷風扇をと慌ててホームセンターに行き、財布を空にして帰ってきた。
保冷剤を入れて使うタイプなので、冷風扇の前に座れば1時間ぐらい涼しい風が来る。
だいたいリビングにエアベッドを置いて生活の場にしているのは母である。使う使わないは別にして母は3部屋も占領している。ダイニングキッチン含めると帝国の版図は過去最大。
だから財布捜すのも大変なんだよ。
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 リルのおもちゃ売り場

小柄ではきはきした女医さんが13:00丁度にやってきた。
「お元気なので、むしろびっくりしました」
というその先生は腰も低いし、話もうまい。小半時話してるだけで医者嫌いの父も納得して了承。
延命治療や手術はしない。投薬と放射線はOKというところまで話がついた。
説明や問診をしながら、それをラップトップにすごい速さで打ち込んでいく。彼女ならプログラマーも副業でできそうだ。
その間、母はそれが誰かも分からずに来客対応。父が既往症などを訊かれている時も、
「また今日は暑くなりましたねえ」と4,5回は話しかける。
その都度、その先生はキーボードから手を放して母に対応してる。偉いねえ。
とはいえ、絶対的に母は邪魔なのでキッチンに連れて行き、冷たい飲みものやおしぼりを用意させる。
近所の自治会の集金か民生委員の声掛けなんかだと思っていたらしく、彼女が聴診器を取り出すとびっくりしたように父の様子を心配そうに見ていた。
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 5年前の夏。このころはよく笑っていたんだけどねえ。

結局2時間もその先生は事細かに初診をしてくれた。
ハンディプリンタもご持参で、その場で処方箋を作成。
今すぐ飲まなければならない薬はないがカルシュウム剤は続けた方がいいとのこと。また家に常備してほしいと言うのが胃腸関係の薬2種と、気管拡張シールに抗生物質くらい。
これは私が明日にでも調剤薬局へ行く。
5年前に心不全を起こして入院した父だが、多少の不整脈は残るものの、年齢からすれば十分大丈夫だということ。
私が気になっていた咳の問題は、肺の機能低下はあるもののいつも一定の時間になることが多いようなので、その原因は環境にあるかもしれないとのこと。緊急性はないし、現時点では酸素をつける必要もないらしい。隔週で来るので、じっくり向き合うと言ってくれた。
「最近疲れやすいらしく、昼ご飯を食べるとすぐ横になってしまうんですが」
「いいですねえ。たくさん寝た方がいいですよ。動くときに動いて疲れたら寝る。健康的じゃないですか」
納得。

なんだか、父がまだまだ大丈夫そうな気持になった。
毎月お金はかかるが、へたな保険よりずっと安心だ。
私が実家に来れないボランティアの水曜日に、隔週だが来てくれることになった。これで、献身的なケアマネやデイサービスを含め、誰かが毎日実家の様子を見る体制ができあがった。
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   海上警備を怠らない船。


息子はまた台風の北上とともに合宿へ出かけて行った。
今も小雨が降っているが、合宿先の那須はこれから連続してやってくる台風19,20号の影響で大雨。とりわけ20号は直撃もありうる。河口湖にしろ、家内の帰省にしろ、我が家は呪われたように台風を呼び込んでいる。日ごろの行いが問われるな、まったく。ろくな夏じゃない。
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 どこにも行かないで良かったなあ。

昨日はかつて上司だった方(Sさんとしておこう)の通夜に行ってきた。私が20代後半に世話になった方だ。退職してから30年、齢90。最期となった日は2時間前までは家族と普通に会話していたそうだ。ソファで横になって眠るように逝ったと聞いた。老衰だった。
小柄でキンキンとした声が響く、とても直截な方だ。確か生まれは日本橋界隈だったから、「ヒ」と「シ」の区別がつかない江戸っ子のベらんめい口調が印象的なボスだった。
Sさんは事あれば誰に対しても真っ向から叱責するので、彼を嫌う職員も多かったが、汗を流すことをいとわず、物怖じせず行動に移そうとする彼の手腕を高く評価する人もいた。
今ではとても考えられないような上司像だ。
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私は事務方として、他の人よりも多くの時間をSさんと共有した。当時どれだけの人が私の仕事に理解を向けてくれただろう。どんな職種の仕事にも深い理解をしめしたSさんだが、私への信頼は特に篤かった。
時々誰にも漏らせないような愚痴も聞かされた。まだやっと仕事をこなせるようになったばかりで、やたら血の気の多かった若造に、あからさまな胸の内をさらすこともあった。
「こんなご時世だからさ、やるべきこと、言うべきことをはっきりしねえとなあ」
強引とも、感情的とも映るような言動の数々を、Sさんはちゃんと自覚していた。自分を反面教師と捉える人への理解もあったし、それをまた期待するようなことも言っていた。
「動かねえで、しらっと見てる奴が一番始末が悪い」

昭和の元号とともに退職なさったが、下町生まれの私にはどこか懐かしい、愚直なまでの正義感を持った近所のオジさんのように思えた。少なくとも、ことなかれで責任回避ばかりするような、或いは何もせず偉そうにふんぞり返っている御仁ではなかった。
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Sさんにはご長男と、知的障害のある娘さんがいらっしゃった。
当時、肩書を持った人が退職すると、関連業界へ嘱託雇用されるのが通常で、言わば天下り体質。
だがSさんは、退職すると即刻福祉施設のボランティアをやり始める。2年後には施設長になっていたが、頑なに自分だけは無報酬を貫いた。
きちんとしたビジョンを持ち、当時としては珍しかったパン工房を施設内に作った。
「障碍者だからって、慈善の気持ちで買ってもらうようなものを作ったりしねえから」
本格的なパン職人を雇って、障碍者への指導に当たらせ、保護者とともに天然酵母のオーガニックパンを製造販売すると、口コミでその美味しいパンは評判となり、店頭販売は2時間もすると売り切れ状態になった。
売り出した当初は、私も売り上げに協力するために、職場での予約販売を積極的にすすめたが、2年もしないうちに配達人員が確保できなくなったと逆に手を引かれてしまった。
そのパン工房は翌年、障碍者の宿泊施設と併設で八ヶ岳に移ったと聞く。
八ヶ岳SA

退職後30年で当時を知るものは少なく、盆休みの日曜日という事もあり、また訃報を受け取っても当人が動けない状況でもあるのだろう、私の知っている人は3人ほどしか来ていなかった。
あからさまに仕事の義理で、見たことも話したこともない先輩に頭を垂れる人が数人いたが、多くは福祉関係者だった。
残念なことに、娘さんと奥さんも通夜の席にはいなかった。来れない事情を推し量ると、残されたご長男の苦労が目に浮かんだ。
ささやかな祭壇は、常日頃から華美を嫌っていたSさんらしかった。
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不謹慎とは知りつつも、来れなかった人のために。(加工済み)

父や母と時代を共にする昭和の人がまた一人逝った。
私を信頼してくれた人だったのに、仕事以外でのもめごとが絶えなかった私を、身を挺して守ろうとしてくれたのも、フォローしてくれたのもSさんだった。
愚かな若造を見捨てずにいてくれたお陰で、真っ当な道を歩めているわけだ。

Sさんとは何度か職場の連中と一緒に小旅行した。
最初は私の最初の職場である八ヶ岳のリゾートだったと思う。翌年はハワイで不慮の事故にあった職員の墓参りで山形へ行った。そのうち、それが恒例行事になった。
昨夜は、そんな在りし日のSさんの笑顔を思い浮かべて供養していた。
ご冥福をお祈りする。

家内が帰省して三日目。
愚かな逃亡者が土曜だと言うのに朝7時半に出かけると言うので、早起きして炊事洗濯。クソッ!
茶会があるとかでスーツを着て出て行った。

昨日は出かける前にゴミ出しをしろと命じたにも拘わらず、そっくりそのまま残ってるし、まったく役に立たん!
私は父の主治医のところへ行って紹介状をもらっていた。
受付ですぐにもらえるのかと思ったら、先生がお話するからと言うのでたっぷり30分も待たされた。
紹介状の内容について説明された帰り際560円を請求され、確認のため父の保険証を見せろという。そんなもん私が持ってるわけもない。必要なら先に言ってよー。
だいたい、94歳の父に後期高齢者保険以外の変更があるか。保険料なんて年金引き落としじゃないの。
それでも融通が利かない事務員相手に話をしてると、最後は先生が「確認はいいから」と一言。

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 ここだよ~

家事を終えて今日はマリーナへ行く。
久々に最高気温28℃の快晴という天気予報だからねえ。風も東の4m/s、それにカラッとして湿度も低い。絶好じゃないの。
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 どこも壊れてないよ。

8月になってから一度もフネを動かしていない。炎暑、大雨、台風にさらされて気になっていたが、JOLLYHOTは全然びくともしていなかった。エンジンも一発で始動。ヨシヨシ。
なんの憂いもなく10時頃出航。
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 久々のセーリング

午前中はことさらに涼しかった。
本来ならオニギリ持って、ピクニックセーリングだが、今日も実家に行かなくてはならない。毎週土曜は家内が様子を見に行くことになっているが、帰省中はそれも私の当番になる。
まあ、おやつの時間まで乗ってよう。
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 セイルの影に入ってご機嫌のリル。

今日はYBMのイベント「もやい祭り」が夕方から催される。小規模ながらも花火も打ちあがる。
いつもだと家族で船上BBQだが、逃亡者も夜遅くなると言ってたし、実家から舞い戻るほどのことじゃない。今年はリルと二人で夕飯を食べるほかない。
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 豪華客船、MSCスプレンディド。(家に帰ってから調べた)

本線航路も今日は賑わってる。お盆明けで港湾も一気に活気づいたのだろう。学生ヨットもたくさん出ていた。全日本インカレも終わったはずだから代交代でやる気満々といった感じ。
風はアビーム。大型船と並行して気持ちよくポートタック。この風なら観音崎を目指せる。
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 ゲストいっぱいのフネが多い。

快調に猿島沖まで来たが、このあたりから風がしぼむ。
走水沖の狭い航路にはボート釣りを楽しむたくさんの人たちが赤旗を立てて”よけろ”と合図。
そのボート群を縫うようにして走る。
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 そろそろ夏季休暇も終わりなんだろうねえ。

正午過ぎ、観音崎まで来ると風が止み、うっすらと北に風向きがシフトする。
しょうがない。ここでシバー。
非常食の魚肉ソーセージをリルと分け合って食べ、ここが潮時とUターン。
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 西洋式灯台の第1号、観音崎灯台。

ここまで来ると、太平洋が望める。
時間があればもっと南下したいけどなあ。
それにしても風が真北になってしまい、帰港するにはタックを何度も繰り返さなくてはならなくなった。とてもじゃないが、クローズであのボート軍団を抜け切るのは至難の業。
ここでエンジン始動して機帆走。
まあ、ランニングで太陽を絶えず浴びているよりも、セイルの影ができる分涼しいからね。
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 わがフネの特等席はリルが占領。

28℃とは言え、直上の日光はリルには暑すぎる。大おばさんの日傘の出番。
私もオーパイ任せでできるだけセイルの影へ。それでも家に帰ると腕も脚も真っ赤だ。
なんとか2時半過ぎに帰港。
3か月以上給油してないから燃料はわずかしかない。
給油所に行って、おフネのご飯。

問題はここから。
給油中に、隣の給油バースへゲストをたくさん乗せた28ftほどのFBモータークルーザーが入ってきた。
進入角度が45度くらいで、往き足を止めてないからバウが桟橋の根元につきそうだった。(給油バースの桟橋は通常の2倍以上の長さがある)当然スタンは我がフネの方向に。
斜めになったままバックキックをいれるも舵を切らないものだから、真っすぐ下がってきて私のフネ右舷船尾近くに250馬力エンジン2基が激突!
バキっという音がした。
それでも操縦席の男は気づかず、後部席に座っていた若い女性だけが悲鳴を上げた。
給油中のバイトスタッフもビックリなら、リルもガクッと転がった。
バースに舫っていた我がフネも、丸型フェンダーが蹴散らされる。
これはただ事じゃないとバイト君がスタッフ責任者を呼んできてくれた。この時点に至っても操縦者は謝罪一つなし。っていうか、
「エンジンカバー割れてない?」などと言っている。
落水者や怪我人がいないかを心配するのが先だろ!しかも給油中だぞ。なんだこいつは?
これにはさすがに腹が立ったので、文句の一つも言おうとしたら多分オーナーと思われる初老の人が降りてきてしきりに謝った。そのアホも降りてきたが何も言わずに船体を見てるだけ。この下手くそが!
マーゴレッタ号か? 
最後には頭を下げて謝ってはいたが...とても悪いことをしたと思っている様子はなかった。
だから週末に乗りたくないんだよ。滅多に乗らない輩がゲストを乗せて船長気取りしてるからねえ。

スタッフとテンダーに乗り込み、破損個所を確認。
見た目にはゲルコートが一部そぎ落とされてるだけだが、結構な衝撃だったので内部のFRP自身が無事とは思えない。ガンネルやステーも点検しないと。
その場で保険対応を決める。で、船舶検査証や免許証を用意しろとスタッフに言われる。YBMでは最低1億円の対物保険への加入が義務付けられている。
自バースに戻って、海王さんに電話。保険対応と言われても何をどうするのかさっぱりわからん。
「スタッフの人に海王が保険修理を一切引き受けると言っておいてください」
と、心強いお言葉。とにもかくにも上架して細部まで調べないとだめだと言われる。

艤装を解き、フネ洗いしていると再びスタッフのTさんがやってくる。
「船舶検査証や免許証のコピーが事務所にありましたから、それで対応します。それにしてもあの角度はないですよねえ」
ついでに海王さんのオフィスに行って、よろしくとご挨拶。
「書類作りとかの面倒なことはこちらでやりますから大丈夫です。修理も当たる前よりきれいに仕上げますよ。怪我がなくてなによりです」
こんな時ばかり頼ってしまう海王さんだが、嫌な顔一つせず大船に乗ったつもりでと言ってくれる。
ありがたいことだ。

昼飯を食い損ねたばかりか、実家に行くこともできなかった。
仕方なく16時半にドネルケバブの午餐。
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 ジーっ。

だけどなあ。上架して点検し、修理が終わるまで乗れないってことだよねえ。
今まで放っておいて何言ってんだと思われるかもしれないけど、走らなくてもいつだって乗れるっていうのが係留の利点なんだよなあ。
なんかどっと疲れましたあ。


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