2017.6.20
6/18から1泊で今年で23回忌となる友人の墓参りに行ってきた。
オタマ”の亭主だった彼とはたまたま大学の同期だったが、在学中は海かバイトかという生活で家にもあまり帰ったことがない私は、当然学部も違う彼とは会ったことがなく、卒業して10年後に職場で知り合う。
知り合った時には肝炎で長期療養しており、職場復帰して間もない頃だった。
いつもニコニコ笑っている彼と濃密な友人関係を築けたのは、彼の満ち溢れる好奇心のたまものだ。
今にして思えば、あの30代前半の時期は友人関係の大きな絆を手繰ったような季節だった。
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彼の女房の”オタマ”や一子コータローが深く関わってきた。
ヨット部の亡き同期ノブシロやアダチ君ともつながっていった。
私の結婚式の司会も彼が一役買ってくれたし、アダチ君の結婚式にも彼は一家三人で福島まで出かけていった。
桧原湖の帰りにはみんなでワイワイ押しかけて亡きノブシロの家に泊まったりもした。
知り合ってから家族同士の濃密な時間を過ごしたにも拘わらず、その後わずか8年という歳月で彼は天に召された。
なので、愚息もアダチ君の息子も彼を知らない。
あれから、22年が経った。

彼の墓は新潟県見附市にある。
恥ずかしながら、一度も墓参したことがなかった。3回忌、7回忌等々節目の年にはオタマを家を訪ねて位牌に頭を垂れても、命日である1月は雪深く、見附に分け入ることができなかった。
こんな時季外れに訪れるのも気が引けたが、せめて自分が動けるうちに一度は墓参しておきたかったのだ。
彼がどんな場所に生まれ、どんな風景の中で育ち、どんな少年時代を過ごしてきたのかを垣間見たかった。
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       まだ残されていた彼の生家。

相変わらずの弾丸墓参でせわしないが、私は持病で新幹線には乗れない。
「国境の長いトンネルを抜けると、そこは雪国であった」という川端康成の『雪国』を出かける前に読み直す。
半世紀前の見附はむしろ『雪国』の方がその雰囲気に近いだろう、そう思ったのである。
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       信越本線見附駅

が、見附だけは時計の振り子がゆっくり動いていたのかもしれない。(見附にお住いの方、申し訳ありません)
古いシャッター商店街、平面的な街並み。
友人の家もそうだが、100年以上も前に建てられた家が解体もされずにたくさん残っている。

見附市は繊維の町として知られていた。友人の父も祖父もニットを中心にした繊維工場を経営していた。
今でこそアパレル業界などと言うが、当時の繊維産業は戦後復興期、経済成長期の主要輸出品目だった。今の自動車産業と同じような基幹産業だったと言っていい。当然経済摩擦が引きおこる。
1971年の日米繊維交渉を皮切りに、ニクソンショック、引き続くスミソニアン協定と、輸出制限から始まった日本バッシングは1ドル360円から一気に308円まで引きあがり、輸出産業とりわけ繊維産業に大打撃を与えて見附は沈んでしまった。友人の父親の会社も倒産。彼は二束三文の株券を握らされて大学に入った。
本来であれば彼は大学を出たのち、4代目として家業を継ぐはずだった。それが、むしろ口減らしのような恰好で東京にやってくる。
深く聞いたことはないが、その父親も在学中に亡くなった。 
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       見附の町

バイトをしながらなんとか大学を卒業したころ、病魔がジワリと忍び寄る。B型肝炎。
天国と地獄の狭間を歩きながらも、彼はいつも笑顔だった。決して過去を振り返らず前だけを向き、楽しいことを積極的に受け入れた。
彼を支えたオタマの存在が大きい。
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    飲めなかった酒と、大好きだったタバコを供する。

彼はいつも私を家に呼んだ。なので、彼と付き合うのはオタマやコータローとも親しくなることを意味した。
私と彼が同じ職場にいたのはたった4年。最初に会ったのは当の本人ではなく、職場に病状報告に来たオタマの方だ。
こんな話をしてると、三日ぐらいかかりそうだから、また折を見て続けよう。


なにしろ初めての場所で、地図の読めないオタマの説明だから、ちゃんと行きつけるのか不安だった。
寺は分かっても墓の場所が定かでない。
当日はオタマに家にいろと言い、これだという墓や生家を見つけては写メを送る。その挙句に電話。
まあ、とにかく墓や生家は分かった。通っていた小学校や中学校は今はもうない。
墓の場所を確かめてから供花や線香を買いに出る。
が、これが全然見当たらない。
コンビニに2軒入って花屋を聞くもバイトの兄ちゃんたちは全く知らず、たまたま声をかけてくれた若い奥さんに教えてもらった花屋は休み。
寺の参詣客にも、掃除してる寺男に聞いてもなしのつぶて。
「スーパーでも行けばあるじゃろね。あ、あのスーパー、先月つぶれたわ」
ってな具合で、花屋探しで小1時間。隣の三条市まで行ってしまった。
仏具、石仏、セレモニーホールなどはたくさんあるのに花屋がない。
結局、たまたま目に入った国道沿いのコメリに入って花と線香を買う。

彼と独り言の会話をし、一緒にタバコを吸い、彼の育った町を遠望する。
隣市、長岡のベッドタウンになりつつある見附市だが、ところどころに曲輪の痕跡が残る街道や、雁木の名残を引きづった家屋を見ていると、彼がなぜあの時期に東京の大学に出たのかが薄っすらと分かるような気がする。
そう言えば、あの頃の首相は地元新潟の田中角栄だった。
「日本列島改造論」の陰で外圧に屈して地元に犠牲を強いたわけか。

花屋を見つけるのに苦労した挙句、昼食が遅くなった。見ればすでに2時近く。
ところが、今度は飲食店がない!たまに見つけるラーメン屋も「本日休業」。
おいおい、今日は日曜だぞ。
食い物屋を捜してるうちに長岡に入ったが、よほど外食とは縁遠いのか、たまに見つけるファミレスも長蛇の列。
ラーメンの「幸楽えん」に人が20人くらい並んでいるのを始めて見た。
やっと昼食にありついたのは長岡インター近くの中華屋。油淋鶏を頼んだが、これが実にまずい。素材だけくれれば私が調理したいくらいだった。こりゃ、空いてるわな。
この辺はコシヒカリの米所。この辺の人は米がうまいから外ではあまり食べないんだなあ、きっと。
そのままインターに乗って、湯沢まで行く。(関越トンネルを抜けたら闇夜になる)
当然素泊まり。でも、皆さんが宴会場で盛り上がっている間、50人は入れそうな温泉浴場を独占できた。

温泉街で割烹料理店に入り、イカの煮物や岩ガキなどを食らって久保田を1合。しめに新潟名物へぎ蕎麦を食う頃には、さすがに疲れたか、ぐるぐる回ってホテルに着くのが精一杯の千鳥足。
彼の事を反芻する間もなくバタンギュー。
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なんだスキー場の隣じゃないの。

たっぷり寝た甲斐あって、朝は高原の風に吹かれて一段と清々しく、こんな所ならリルを連れてくればよかった、などと考えていたら、留守番のリルが妙に心配になって寄り道せずに一直線に帰宅。

で、今日は朝からヤブ医者と整骨院。
なぜか血圧が正常値になっており、これも一つのご利益か?
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   いい子でお留守番してたよ~

明日は歯医者とボランティア。
これから生徒さんがさっきメールで送ってきた作文の添削だあ。