D旗たなびく

忘却甚だしく、メモ代わりにちょっと書くだけ。 コメントは受け付けていません。

カテゴリ: 家族

アジアカップには驚愕。
アジア勢にはこの6年間負けなしでこの準決勝まで失点0だったイランに3-0で圧勝。
今まで一体何だったんだ?初戦のトルクメニスタンから全部1点差の辛勝で、内容もひどかった。
なんで急に強くなった?
確かにアジアカップ前の国際試合ではバルサ並みのパス回しで、若手が躍動してたんだよなあ。
元に戻ったか?やっぱり半端ない奴が半端な動きだと歯車が狂うのか?ポイチ監督のコーチングなのか?
ヴェトナム戦とは別のチームみたいで、さっぱりわからん。
昨日のゲーム内容だったら優勝もかなり濃厚だ。ファイナルに期待しよう。
モスク

介護、看護、介病で家と実家の往復だった四日間が、なんとか終わりそうだ。もうご飯作り飽きた。
家内が今朝から起き上がり、少しづつ体を動かすようになった。
明日も仕事を休むが、寝疲れた体を動かさないと溜まった仕事はできない。最初は怠い、重いとか言ってたが、「立て、立つんだ女房!」とか言って、夕方には夕飯の買い物に行かせる。
まあ、保菌者だから食事は私が作ったけれど、とにかく熱は下がったし、咳もしなくなった。
明日は私のボランティアだから、夕飯は作るだろう。どうせ大飯食らいの愚息だから、スーパーの総菜でも与えていれば十分だ。
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 誰がゴハンくれるの?

今日までは座敷牢で寝てもらうとして、この隔離を解いた後がちょっと不安だな。
今のところ私も愚息もインフルエンザ症状はない。
このままだと5年ぶりくらいに風邪で寝込まない1月になりそうだ。うーん、案外お寺の星読みが当たっているかも。

昨日は早速にケアマネと相談。
父の負傷を考えると、週に一度はヘルパーに来てもらって、洗濯やら風呂掃除、買い物と食事作りくらいはお願いしたい。介護保険の持ち点もそのくらいの余裕はある。
木曜だけでも来てくれればなあ。そうすると毎日誰かしらが来て安否確認できる。私の負担も軽減する。問題はそれを母が受け入れられるかだ。プライド高いからなあ。
毎回「どちら様?」とか「そんなの聞いてない」とか言いそうだし。
でも、定休日欲しいよ~
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 フリスビーもできないんだよ。

まあ、母しだいだ。説明しても1分後には忘れているから、言い聞かせても意味がない。その時その時で受け入れてもらうしかない。父は大賛成だ。家事の大半が父に移譲されてしまっているからで、その父の負担を軽くするために私が行くわけだ。家内や息子はむしろ母のために行ってるようなもの。
のんきではいられないことは重々承知だけど、たまにはどこかへ行きたいよなあ。
元々放浪癖があるからなあ。
ダメかな?

今日は一日雑務をこなす。やたらと捨てまくった。
リタイアすると趣味が高じて物が多くなるという。私の場合はその逆、とにかく捨てまくっている。
あまり物に執着しない方である。身軽になって未練なく逝きたいと思ったりする。
外に出たのはリルの散歩だけ。
オマエは身軽だよなあ。








家内は座敷牢に閉じ込めたまま。牢番だけがやたらと忙しい。
脱獄囚は日曜日だというのに、朝7時半には出て行った。
「カレー、温めて食べていけ」
家内が寝てるから、朝からバタバタしたくない。
8人分作ったはずのキーマカレー、昨夜3人で4人分食べた。(脱獄囚に大食らいがいる)
まだ半分は残っているはずと、洗濯を済ませて鍋を開けると一人分しかない!
あの役立たずの大飯食らいめが。羊肉のミンチなんてそうそう売ってるもんじゃないんだぞ。
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しょうがないから家内には梅がゆを作り、適当に総菜を作る。
私は最後のカレーを惜しみながら食べる。こりゃ、昼飯と夕飯も作らにゃ。
家内の総菜、ヒジキだの芋の煮っころがしだのを作っていたらリルのご飯が遅れてギャンギャン催促。
まったく、愚犬も愚息も役に立ってない割に飯だけはちゃんと食べるな。
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 ゴハン遅い。

リルの散歩をし、洗濯物を乾して、掃除機をさらっとかけたら早や10時。
リルを連れて実家に薬を届けに行く。

母の薬は我が家で管理している。日曜日に一週間分の薬を仕分け箱に入れる。
そうしないと飲みすぎたり、まったく飲まなかったりするからだ。それでも、毎日夕飯後に電話しその場で飲ませるようにしている。(電話しないと全く飲まない)

実家では父の元気がない。こんな時は眠いのか、立腹しているかのどちらかで、その原因を探り出すまでには時間がかかる。
相変わらず加湿器はコードが抜かれたままで、洗濯機は途中で止まっており、玄関には宅配の荷物がそのままになっている。
母にカレンダーを持ってこさせ、今日が何日で何曜日かを言い聞かせることから始まる。(先日は2時間かかった)その場で薬を飲ませ、水分補給のミルクティを作る。
この間、家内がインフルエンザに罹ったと10回くらい繰り返す。
セラピー犬リルにほだされてダイニングにやってきた父の左手には包帯が巻かれていた。
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昨日ポストに新聞を取りに行ったとき転倒して、庭石に頭をぶつけそうになったらしい。なんとか左手をついて最悪の事態を免れたものの、左手の平は裂傷と擦過傷で膨れ上がった。
消毒して、包帯を巻いたのは母だったが、今朝はもうそのことをすっかり忘れていて、
「あら。その手はどうしたの?」と訊いたそうだ。
朝、新聞を取りに行くのは父の役割になっており、半世紀以上毎日繰り返していた行為だけに父はショックを受けていた。なにしろ玄関からポストまではせいぜい5,6歩で平坦。
頭をぶつけそうになった庭石とは指2本分の隙間しかなかったらしい。
その場で死んでもおかしくなかったといい、いくら呼んでも転倒に気づかない母にがっかりしたのだという。で、今朝の「その手はどうしたの?」だから、いい加減腹が立ったらしい。こうなると土産に持って行ったアンパンくらいでは済まない。
母に洗濯物を乾しに行かせ、リルに愛嬌を振るわせつつ、じっくり愚痴を聞く。

テーブルの上に無造作に置かれてあったリンゴ(これも私が持っていた)が傷み始めていたので、昼ごはんにはならないが、ハチミツとシナモンパウダーでコンポートを作る。
本来なら冷まして冷蔵庫に小1時間ほど入れるが、どうも父は朝から不機嫌で何も食べていなかったようだ。まだ湯気が出ているリンゴをホクホクしながら食べていた。

気が付けばすでに昼時。
慌てて家に帰る。
で、また梅がゆを作ったら自分の食べるゴハンがなくなった。
しょうがないから自分用にパスタ。
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 なんか散歩もいい加減だよなあ。

食器洗いや部屋の片づけをし、リルの散歩がてらドッグフードを買いに行って帰ると家内がテレビを見ていた。熱は下がったらしい。
が、キャリアであることには変わりない。その辺の物に触るなといい座敷牢に追い込む。
それから夕飯の買い物をし、家内には卵入りのおじやを作る。
せっかく出汁からとって小松菜やソラマメを入れ込みを卵も落として、野菜のさつま揚げやコブのつくだ煮や奈良漬けまで用意したのに、
「もう味もわかるし、普通でいいよ」と言われる。
ええい、明日はコンビニ弁当でも食わしてやるぞ!

夜の散歩も済ませたが脱獄囚は未だ帰宅せず。まだリルの方が役に立ってる。
腹減ったらカップラーメンでも食え!

いやあ、驚いた。
テニスの全豪オープンで大坂なおみが優勝した。5か月前の全米オープン優勝に引き続くグランドスラム2冠を達成しただけではなく、世界ランキング1位となった。若干21歳で我が愚息と同い年だ。
日本人が世界ランク1位なんて、自分が生きてる間にはないだろうと思っていたから、ただ呆然。
優勝した本人は、若さが露呈した第2セットの総崩れから立て直すのにどれだけ自分の感情と戦ったのか凡人には計り知れないが、精神的にかなり疲れた様子で、笑顔を作るのが精いっぱいという感じだった。
明日になったら実感が湧いてくるのかもしれない。本当に敬服した。
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昨日から具合が良くなかった家内は朝一番に医者へ行く。
昼前には戻ったが、インフルエンザであることが判明。客間として使っている和室に隔離する。
で、これからがバタバタとなる。
通例、土曜は家内が実家に行き、洗濯だの食事作りをすることになっている。
ゲッ、今日は私か。
わが家の家事は私の分担、それはいいとしても実家にインフルエンザの家内をやるわけにはいかない。っていうか、行けない。取り敢えず連絡。
こんな日に限って愚息は脱獄で朝から不在。
昼は牛丼のテイクアウトで誤魔化したが、これから4,5日は実家を含めて私が全部やらにゃならん。
暗黙の家事分担が出来上がっている我が家では一人従事者が欠けるときついなあ。
脱獄囚の予定も分からないから、大量にカレーを作る。実家の分も含めて二日くらいは持つだろう。
買い物含めて3時間もかかってしまった。
午前中にリルの散歩に行っててよかった。いやいや、夜の散歩も私がやるのか?
そういえばリルのドッグフードも夜に底をついた。買いに行かなきゃ。
うへ、洗濯物取り込むのを忘れてた。あ、風呂洗ってない! 何?新聞の集金だあ?
てな具合で、午後からは目まぐるしい一日。
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 なにやってんの?

夕飯時に帰ってきた息子に、しっかりと食器の片付けなどをさせ、リルの散歩にも行かせる。
で、なんとか全豪オープンの決勝だけは見られた。

愚息は明日も茶会。
実家への薬配達もこっちに回ってくるな。
当初の予定が大幅な変更になった。
例年1月には私が風邪で寝込んだりするが、これで家内のインフルエンザが移ったら目も当てられない。隔離病棟の和室には近づかないようにしよう。アルコール消毒も必要だ。
普段、人混みを避けてる私だけにウィルスには弱い。今もちょっと喉が痛いけれど、せめて水曜の夜までは持ちこたえねば。
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あれもこれもと気ばかり焦って、掃除すらしなかった一日。
大阪なおみのように気持ちを立て直すことなど、死ぬまでできそうにないな。






だいぶ日が空いた。
こういう時はだいたい忙しい。軽い鼻かぜもあったし。とはいえ別に寝込んでいたわけではない。
えーと、いつから書いてないかな?

ボランティアはまた新たに中国人と、ドイツ人とフランス人が入ってきた。3人とも私の担当になって、ひっちゃかめっちゃかな授業。韓国のソフィアさんには申し訳なかったが、また最初から。
丸一日の準備が全部雲散霧消。
本当なら助っ人を呼びたいけれど教室のキャパシティも満杯状態。これ以上の参加は無理がある。ボランティアの元締めに、これ以上人を送り込まないで欲しいと伝える。
今週見学に来たいと言っていた異文化共生ラウンジの日本語コーディネーターに、
「今来ても椅子一つ余分にない」と伝えるつもりで連絡したら、その方はインフルエンザにかかって当面出入り禁止になっていた。危ない、危ない。
ここでインフルエンザなど持ち込まれたら教室閉鎖だ。
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 検疫を待つ船。

昨夜は伯母の通夜。
行く行かないと一モメあったが、結局私が代参で行った。
まあ、もともと自分はいくつもりだったから代参でもないか...
とにかく親から香典を預かって、大和市の葬祭場まで出かけようと喪服に着替え始めると、
うーん、服がきつい。
そういえば、ここのところ夏場の葬式ばかりで冬の葬儀に出たことはなかったっけ。
式服など夏冬用に2着もあればいいと、退職後に他のスーツともども処分したが、この冬用の式服はかなり前の奴で、退職後のだらけた体には全然合ってない。
しまった、古い方を残しちゃったよ。もっと早く試着しておけばよかったあ。
どうせ見えないベルトを取り外し。アンダーウェアを削り、できる限り薄い夏用の肌着をつけて再トライ。
なんとか嵌った!
が、動くと苦しい。これで椅子に座ったらボタンが千切れそうだ。
葬祭場までは電車を2回乗り換え、バスかタクシーに乗る。そりゃ無理だわ。
上着を脱ぎ、ズボンのチャックを少し下げ車で出かける。
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 アホか。

といっても、ヒーターが利くまで時間がかかる。
とっくに日が暮れて冷気漂う車内は、一昨日まで鼻風邪でクシャミばかりしていた私には地獄。
うっかりすると鼻水が垂れてくるから、膝の上にJAFのロードマップを敷いた。
1分ごとに出るクシャミに文句を言いつつ、保土ヶ谷バイパスの大渋滞に突入。
「クソっ!こんな時に限って道路工事かよ」
車は暖まり始めたが、今度はティッシュがない!最初の10分で皆使い果たした。
それからはポケットのハンカチを使う。1時間ほどかかって葬祭場に付いた頃にはそのハンカチもでろでろで、とてもポケットに戻せる状態ではない。
しょうがないから、窓拭き用のウェスをポケットに突っ込んだ。(最初からこっちを使えばよかった)
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享年97歳の伯母だけに集まったのは親族ばかり17,8人。
子供3人とも70歳を越えている。こんな場に来ると孫以外では私が一番年下になるので「君」はともかく、大半の人に「ちゃん」呼ばわりされる。
で、読経が済んで通夜が始まるといとこたちに私が生まれた時の話や、記憶にないエピソードを聞かされる羽目になる。
「あんたは小さい時、ほんとに可愛くてね~」とかなんとか、一体どの顔見て話してんだよ。
母と同じで昔のことだけは本当によく覚えているなあ。
ところがこっちはそれどころじゃない。
微動だにできない”正しい姿勢”で、酒も飲めない通夜の席。出てくる料理も寿司桶に魚介のオードブル。「車なんで」とは言えても「蕁麻疹なんで」とは言えない。
ただでさえスースーする夏肌着にノンアルコールのビール。こりゃトイレが近くなるな。
閲兵式の自衛官のごとく背筋をピシッと立ててトイレに駆け込む。用を足すときにジッパーを下げた瞬間には生き返る心地だった。
マグロやヒラメの握り、三つも食べちゃったよ。

斎場のいいところは時間制。9時には終わる。
上着を脱ぎ棄て、ジッパーを下ろして運転して帰る。
帰りも工事渋滞だったが、なんだか自由になった思いだった。
絶対、新しい式服買うぞ!
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今日は香典返しを持って実家に報告。
母は未だに誰が亡くなったか分かっていないが、通夜の席で出た昔語りの話をするととても懐かしそうで、
「そうそう、あの頃は亡くなった伯母さんたちは川崎大師に住んでて、いつも久寿餅持ってきてくれてね。あんた、きな粉を鼻で吸い込んでよくむせてたねえ。しばらくして会社の溝ノ口の寮に移ったけど、そこは狭くてあまり長く住まなかったのよ。半年ぐらいで大倉山にまた引っ越してねえ」などとやたら詳しい。
自分の小さい頃のことを話のタネにされたというと、
「近所のあんたの従姉妹たちがしょっちゅうやってきて、みんなで代わる代わる抱きたがったから、たらい回しのようだったねえ」
とか言う。
むー、そうやって小さい時から人の坩堝の中で育てられたか。
そういえば昨日会った従姉の中学遠足の集合写真には、何故か幼い私が写っている。
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 お前もみんなに可愛がられて育ったんだぞ。

父は最後の姉弟を立て続けに亡くして、背が余計まるまった。






なんだか動きが早くて、ついていけてないこの頃だ。
年明け早々訃報が入る。父の最後の兄弟姉妹で、父の97歳の姉が亡くなった。
日ごろ親戚づきあいなどしたことのない従兄たちは、こんな時に限って私に連絡してくる。
父の家の電話番号やら他の従姉妹たちの連絡先を訊いてくるわけだ。私も弟や親せきにその訃報を伝えていくから、伝えた本人がいかないという選択肢はなくなる。必然的に私がお通夜や告別式に出席せざるを得なくなる。訃報はいいにしても、いっそのこと葬儀は家族で行いますと一言添えてくれた方が気が楽なんだが。
私が行くとなると、一番血が濃い父も行かざるを得なくなる。こんな寒い日に黒服着て出かけること自体、死を招きそうだから、香典だけ預かることになるだろう。まあ、なんにしても私が代参で行かなきゃいけないわけだ。
亡くなった伯母は、それこそ小学生の時に2,3度父に連れられて港北区の団地に遊びに行った程度で、そこを引っ越して以来親戚の葬儀以外は会ったことがない。それでも私は毎年年賀状を出していた。
父も一番縁が薄い姉だとよく言っていたが、伯母の長男の仲人を引き受けた。その長男は何年かして離婚し、以来一切連絡がない。私もどこでどうしてるかしらない。
連絡を寄こしたのは末の弟で、一応大学の先輩にあたる。いかにも面倒そうな声で、なんで俺が?というイヤイヤ感がぬぐえない。
父は亡くなった伯母を偲ぶというより、甥や姪の今までの不義理に文句を言っている。そういう愚痴を聞くのも私の役目だ。
まあ、昔と違って親戚はむしろ厄介な存在になりつつあるな。
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 横浜大鷲神社の金毘羅さん。

その父のために、なんとか思い出の”黄色いカレー”を食べさせようとしている私だが、未だにOKが出ないでいる。時々、町の洋食屋に入って食べてみるが、同じものを作れるかというとこれが案外難しい。
また同じようにできても、そもそもその洋食屋のカレーと父の記憶とではまったく異なっていたりするから、いつも振りだしに戻る。
私の祖母が作ったという幻のカレー。
家庭で作ったのだから、今時のゴチャゴチャ香辛料が入った物じゃない。
昭和初期のカレーを再現しても、それは”祖母”の味ではない。
味の記憶というものは、その個人の舌でしかわからない。なので、何度も何度も挑戦するしかない。
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 昨日の試作品。全然ダメ。

カレーが画期的に変わったのは『バーモントカレー』かな?
いわゆる固形ルーの誕生が、それまでの家庭のカレーを一変させた。最近ではカレーは黄色でなく、茶色い。
私が小さい頃のカレーはS&Bの缶入り”カレー粉”で、それを油を浸み込ませた小麦粉で練り合わせたお手製のルーだった。多分給食でも、街の食堂でも使われていた思う。
戦前戦中戦後の空白期を除けば、昭和初期に家庭で作れたカレーは昭和30年代のものと変わらないという私の発想なんだが…
当時の洋食屋の味を思い出しながら、ああでもないこうでもないと研究を続けている。
あの当時、ニンジン、ジャガイモ、玉ねぎの定番三種の野菜は入っていなかったように記憶してる。
玉ねぎは必須だった。肉もあるか無いかの豚肉もしくは鶏肉で、自由化前の牛肉はなかなか一般家庭でも洋食屋でもお目にかかれなかった。ステーキやシチューはメニューにあってもそれは破格で子供の私にはとても食べられるような代物ではなかった。
多少とろみついたカレーをこねくり回していると、たまに指の先くらいのジャガイモを掘りあてて得した感じになったものだ。豚肉も二切れ入っていると”当たり”だった。
それでも、ラーメンが70円の時にカレーは90円だった。
全体は鮮やかな黄色で、さして辛くはなく、玉ねぎ以外の存在は希少だった。そこに赤いニンジンが入っていた記憶はない。ニンジンは学校給食だ。
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 なんでも食べるよ。

今回はカレー粉ではなく、ウコンとショウガをベースにしてみた。辛味には鷹の爪と白コショウを使う。クリームとハチミツも少々。具は牛肉のバラと玉ねぎのみ。
出来上がったものを味見してみたが、後味に苦みが残る。秋ウコンのせいだ。
こんなんじゃないよなあ。
まあ、ダメ元で、それを息子に持って行かせ、何がどう違うのかを御用聞きさせた。
「具が多すぎる。もう少し辛い。色ももっと黄色い」
「苦いって言ってなかったか?」
「それは言ってない。味は前より近いって」

カレーの黄色はターメリックだが、日本ではウコンとして知られている。
当時、輸入物のターメリックなど売ってもなかったはずで、せいぜいカレー粉に混ざっていただけ。
ただ、少なくとも今のカレー粉にはその他の香辛料も入っているから、まっ黄色にはならない。
むー、試験管がほしくなってきた。
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