巡察師ヴァリニャーノというイエズス会神父をご存じだろうか。
戦国時代の宣教活動をその名の通り巡視して管区長やローマに報告し、自らも布教努力と改善に努めたパードレのマスターである。波乱に満ちた生涯はともかく、インドから中国、日本に至るまでの広大な版図を巡りまわって三度来日し、時の権力者である信長や秀吉に謁見しているイタリア人で、天正少年使節の企画立案も行っている。
そんなの知らないよ。
いつか来るだろうと思っていた日本語ボランティアの巡察師が、昨日唐突にやってきた。
といっても女性二人だが、始業前に台湾の実習生二人とグループ分けの机移動してる時だった。
「先生、また新しい人来たよ」
えーっ!もう定員オーバーだよ~
まあ、確かに一人は市の中国人通訳だから台湾の彼等には日本人と違うとすぐわかるわけで…私もよく知っているのでホッとした。
もう一人が行政書士の日本語コーディネーターで、元締めの国際なんだら協会の人。この方もよく会合で見る。
要は、協会の指針に沿っているかを確認するためだが、運営状況の把握や学習者の国別統計などをして、それをもって国や市に予算要求する。
20分ほど現状の説明と問題点を示し、あとは研究授業のごとくオブザーバーとなって巡視していた。
その後のミーティングにも参加して、改善点を指摘して帰って行った。
日本語ボランティアの流れとしては、異文化コミュニケーションを主体にした「共生」という姿勢が求められている。昼間の教室は体験学習や異文化理解が中心で、日本語を教えているというより日本の生活や風習を理解させることに重点が置かれる。
防災訓練や消防署見学、清掃事務所によるゴミ出しの説明など、コーディネーターが用意する各国語のリーフレットで理解させる。
それが大事なのは百も承知。私たちだってたまに取り上げる。でも、日本語をきちんと学ばずして日本社会の中で生きていくのは難しい。自分が逆の立場ならわかるだろう。
昼間は専業主婦が多く、小中学生も放課後に参加することを学校が推奨している。
でも、挨拶一つ、ひらがな一つできないのに地域共生もへったくれもあるか。学校だっていつまでたっても天井を見上げているしかない外国人児童生徒に困っているはずだ。
教室のある建物
昼と夜では学習者層が違う。
夜間は皆何かしらの仕事や学業を持った人たちで、そのほとんどが高学歴だ。
彼らは日本をよく理解しているし、自らのキャリアップのために日本語を勉強したいと思ってやってくる。
日本語学校に通いながら勉強がまだ不十分だと思ってやってくる学生や、実社会の中で日本語の必要性を感じて通ってくるホワイトカラー、ワーキングホリデーでアルバイトしながら自らの趣向のために日本語を磨こうとする若者たち、日本語能力試験に挑戦して母国に帰ってからの日系企業入りを目指す大学院生等々。
彼らは日本に定住することはあっても、永住などは考えていない。それでも日本が好きだから自分の意思でやってくる。
先般国会決議された外国人受け入れ法案。現場整備が論議されないなかでの外国人労働者の受け入れは、見切り発車どころではない。そのしわ寄せは各都道府県に丸投げされる。新たな人員を配置して専門窓口を設けても行政は仕分けと金勘定するだけだ。仕分け先のほとんどが財団法人や第3セクターで、結局はボランティアにお鉢が回る。
特1から特2の間に日本語能力試験の合格条件をいれたことで、街のボランティアに余計な負担が回ってくる。うちの現状ではそれに対応できない。
それどころか、夜に消防署や清掃事務所の人なんて来てくれないよなあ。
だいたい、なんで防災訓練は昼間ばかりやるんだ?夜だって地震は来るだろう?
各地に日本語教室ができたのも日本が技能研修制度から技能実習制度に移行し在留期間が3年となった1997年からで、アジア通貨危機の真っただ中。どっと外国人が流れ込んだ。行政が対応しきれなかったのを元締めのような国際なんだら協会が引き受けた。
協会がやったのは街のボランティア教室を開くための人材作りだった。私はその当時の最後のボランティア。ラストボランティアだ。
あの時と同じで、過酷な労働条件で仕事をしている技能実習生に、誰がちゃんとした日本語を教えるというのだ。日本語を勉強しなければ試験問題さえ読めないじゃないか。
彼らには国にいる家族の生活がかかっている。
ここにきて毎週のように参加を希望する学習者がいるという実態を、昼間のオフィス勤務しかしない巡察師殿はいったいどうとらえたのだろうか。
皆が楽しそうに勉強している姿や、学習そこそこに生活お悩み相談になってしまっているグループ、始業30分前に来て予習している姿を見て巡察師殿はどう思ったのだろうか。
カソリック布教に生涯を賭したヴァリニャーノ神父はローマ教会の正当性を押し付ける布教ではなく、その土地土地に応じた価値観を受け入れる適応主義に布教の主体を変えた。宣教師には中国語や日本語を積極的に学ばせて信者を確実にまた爆発的に増やした。
私たちも目の前にいる学習者個々のニーズに合ったサポートを続けていく。
よくわかんないよ。
上意下達の巡察師殿にあれこれ説明していたら、やたらと腹減った。
ボランティア後、いつもの中華屋さんへ。
今日は何が何でもチャーハン食ってやる。(卵が入っているので避けていた)
で、いつものように中国人の奥さんに、
「卵大丈夫?」などと心配されながらもガツガツ食べた。サービスに湯円(タンユェン)をくれた。暖かい、ツバメの巣のような白きくらげと白玉を使った甘いスイーツだ。こりゃ珍しい。
勘定を支払って出ようとすると、娘さんに話かけられる。
社会人1年目で、中国語ができる彼女はとある上場企業の上海支店に行かされている。春節休暇で戻ったのだという。
日本企業と合弁の工場で、主だった製品は車のワイヤーハーネス(血管のような車内電気ケーブルのシステムセット)。
工場の幹部は日本人だが、現場主任は中国人。なまじ中国語が話せ、同じ血が流れているだけに、現場で働く工場労働者の不満やクレームを引き受けざるを得ないのだという。
彼女と会うのは3年ぶり。おそらくこれが3回目。
私を親戚のオジサンとでも思っているらしく、仕事の悩みをたっぷり聞かされる。
まあ、こんな時リタイア組は何とでも言えるな。
自分の社会人一年目も、アルバイト120人の苦情と悩みを聞いて問題解決することだった。そんなことを思い出し、アドバイスにはならない”理解”で励ました。
店はとっくに閉めており、ご主人たちも帰り支度が済んでいたが、彼女がなかなか開放してくれない。
たったまま1時間近く話をしていた。
「先生はもういっぱい疲れてるよ」と奥さんが注意してくれなかったら午前様になっていたかもしれない。
でも、なんだか彼女に信頼されているようで嬉しかった。
いつまで待たせるのよ~
今日は久しぶりに雨。
少しゆっくりした。1月も終わる。
戦国時代の宣教活動をその名の通り巡視して管区長やローマに報告し、自らも布教努力と改善に努めたパードレのマスターである。波乱に満ちた生涯はともかく、インドから中国、日本に至るまでの広大な版図を巡りまわって三度来日し、時の権力者である信長や秀吉に謁見しているイタリア人で、天正少年使節の企画立案も行っている。
そんなの知らないよ。
いつか来るだろうと思っていた日本語ボランティアの巡察師が、昨日唐突にやってきた。
といっても女性二人だが、始業前に台湾の実習生二人とグループ分けの机移動してる時だった。
「先生、また新しい人来たよ」
えーっ!もう定員オーバーだよ~
まあ、確かに一人は市の中国人通訳だから台湾の彼等には日本人と違うとすぐわかるわけで…私もよく知っているのでホッとした。
もう一人が行政書士の日本語コーディネーターで、元締めの国際なんだら協会の人。この方もよく会合で見る。
要は、協会の指針に沿っているかを確認するためだが、運営状況の把握や学習者の国別統計などをして、それをもって国や市に予算要求する。
20分ほど現状の説明と問題点を示し、あとは研究授業のごとくオブザーバーとなって巡視していた。
その後のミーティングにも参加して、改善点を指摘して帰って行った。
日本語ボランティアの流れとしては、異文化コミュニケーションを主体にした「共生」という姿勢が求められている。昼間の教室は体験学習や異文化理解が中心で、日本語を教えているというより日本の生活や風習を理解させることに重点が置かれる。
防災訓練や消防署見学、清掃事務所によるゴミ出しの説明など、コーディネーターが用意する各国語のリーフレットで理解させる。
それが大事なのは百も承知。私たちだってたまに取り上げる。でも、日本語をきちんと学ばずして日本社会の中で生きていくのは難しい。自分が逆の立場ならわかるだろう。
昼間は専業主婦が多く、小中学生も放課後に参加することを学校が推奨している。
でも、挨拶一つ、ひらがな一つできないのに地域共生もへったくれもあるか。学校だっていつまでたっても天井を見上げているしかない外国人児童生徒に困っているはずだ。
教室のある建物
昼と夜では学習者層が違う。
夜間は皆何かしらの仕事や学業を持った人たちで、そのほとんどが高学歴だ。
彼らは日本をよく理解しているし、自らのキャリアップのために日本語を勉強したいと思ってやってくる。
日本語学校に通いながら勉強がまだ不十分だと思ってやってくる学生や、実社会の中で日本語の必要性を感じて通ってくるホワイトカラー、ワーキングホリデーでアルバイトしながら自らの趣向のために日本語を磨こうとする若者たち、日本語能力試験に挑戦して母国に帰ってからの日系企業入りを目指す大学院生等々。
彼らは日本に定住することはあっても、永住などは考えていない。それでも日本が好きだから自分の意思でやってくる。
先般国会決議された外国人受け入れ法案。現場整備が論議されないなかでの外国人労働者の受け入れは、見切り発車どころではない。そのしわ寄せは各都道府県に丸投げされる。新たな人員を配置して専門窓口を設けても行政は仕分けと金勘定するだけだ。仕分け先のほとんどが財団法人や第3セクターで、結局はボランティアにお鉢が回る。
特1から特2の間に日本語能力試験の合格条件をいれたことで、街のボランティアに余計な負担が回ってくる。うちの現状ではそれに対応できない。
それどころか、夜に消防署や清掃事務所の人なんて来てくれないよなあ。
だいたい、なんで防災訓練は昼間ばかりやるんだ?夜だって地震は来るだろう?
各地に日本語教室ができたのも日本が技能研修制度から技能実習制度に移行し在留期間が3年となった1997年からで、アジア通貨危機の真っただ中。どっと外国人が流れ込んだ。行政が対応しきれなかったのを元締めのような国際なんだら協会が引き受けた。
協会がやったのは街のボランティア教室を開くための人材作りだった。私はその当時の最後のボランティア。ラストボランティアだ。
あの時と同じで、過酷な労働条件で仕事をしている技能実習生に、誰がちゃんとした日本語を教えるというのだ。日本語を勉強しなければ試験問題さえ読めないじゃないか。
彼らには国にいる家族の生活がかかっている。
ここにきて毎週のように参加を希望する学習者がいるという実態を、昼間のオフィス勤務しかしない巡察師殿はいったいどうとらえたのだろうか。
皆が楽しそうに勉強している姿や、学習そこそこに生活お悩み相談になってしまっているグループ、始業30分前に来て予習している姿を見て巡察師殿はどう思ったのだろうか。
カソリック布教に生涯を賭したヴァリニャーノ神父はローマ教会の正当性を押し付ける布教ではなく、その土地土地に応じた価値観を受け入れる適応主義に布教の主体を変えた。宣教師には中国語や日本語を積極的に学ばせて信者を確実にまた爆発的に増やした。
私たちも目の前にいる学習者個々のニーズに合ったサポートを続けていく。
よくわかんないよ。
上意下達の巡察師殿にあれこれ説明していたら、やたらと腹減った。
ボランティア後、いつもの中華屋さんへ。
今日は何が何でもチャーハン食ってやる。(卵が入っているので避けていた)
で、いつものように中国人の奥さんに、
「卵大丈夫?」などと心配されながらもガツガツ食べた。サービスに湯円(タンユェン)をくれた。暖かい、ツバメの巣のような白きくらげと白玉を使った甘いスイーツだ。こりゃ珍しい。
勘定を支払って出ようとすると、娘さんに話かけられる。
社会人1年目で、中国語ができる彼女はとある上場企業の上海支店に行かされている。春節休暇で戻ったのだという。
日本企業と合弁の工場で、主だった製品は車のワイヤーハーネス(血管のような車内電気ケーブルのシステムセット)。
工場の幹部は日本人だが、現場主任は中国人。なまじ中国語が話せ、同じ血が流れているだけに、現場で働く工場労働者の不満やクレームを引き受けざるを得ないのだという。
彼女と会うのは3年ぶり。おそらくこれが3回目。
私を親戚のオジサンとでも思っているらしく、仕事の悩みをたっぷり聞かされる。
まあ、こんな時リタイア組は何とでも言えるな。
自分の社会人一年目も、アルバイト120人の苦情と悩みを聞いて問題解決することだった。そんなことを思い出し、アドバイスにはならない”理解”で励ました。
店はとっくに閉めており、ご主人たちも帰り支度が済んでいたが、彼女がなかなか開放してくれない。
たったまま1時間近く話をしていた。
「先生はもういっぱい疲れてるよ」と奥さんが注意してくれなかったら午前様になっていたかもしれない。
でも、なんだか彼女に信頼されているようで嬉しかった。
いつまで待たせるのよ~
今日は久しぶりに雨。
少しゆっくりした。1月も終わる。